2024年 楽しかったこと、記憶に残ること
  (仕事以外で)


1  一関でのゴルフと牡鹿半島

 1123日、ちょうど1年前と同じように3人でゴルフをし、その後牡鹿半島の民宿に1泊しました。一関カントリークラブは初めてでしたが、スコアは94と今の自分としては好成績でした。そこから牡鹿半島の鮎川まではゆっくり3時間近くかかりましたが、海辺の風景と近海でとれたごちそうで大満足でした。おそらくは日本のいたるところを旅している松田忠夫君の企画でした。ドライブ中の雑談でも彼の知識の広さには毎度のことながら感心させられます。帰りに寄った石巻魚市場もよかった。来年は白土君をまじえてまた行く予定です。


2 昔の本

 私は元来無趣味で、青年期、中年期とも暇があれば本を読むぐらいしかなかった人間です。家には本がたぶん3千冊ぐらいあると思いますが、その中の23百冊は買ってもちゃんと読んでいないものです。いつか読まないと、と背表紙を見るたびに思う本がいくつもあります。その中で今年は4冊しっかり読みました。

まずはR.Porter著、
The greatest benefit to mankind.、1997.  (人類への最大の恩恵、という意味)。 医学の歴史について書かれた本ですが、この本の特徴は、医療と人間社会についての関連についても詳しく書かれていることにあります。 以前なぜこの本を買ったのか記憶にありませんが、内容はとても豊富でした。英語の本で約800ページ。

 夏ごろからはネルソン・マンデラの「自由への長い道」に没頭していました。ご存じのとおり、アパルトヘイトに反対し、組織の先頭にたち、ついには政治犯として監獄に23年間入れられ、しかしその後、南アフリカは普通選挙になって、その初代大統領になったときは世界中から祝福されました。

 本の中では少年期からの自らの足取り(マンデラは部族の指導者層の家に生まれた。青年期からは国の矛盾・悪を切実に見聞きし感じ、黒人相手の盛業の弁護士から次第に反アパルトヘイトの闘士になっていった。組織や社会思想についての氏の考えにはひとつひとつに納得させられましたが、最も驚いたところは次のようなエピソードです。

 アパルトヘイトのあまりのひどさに、1960年代になり氏はガンジー主義をモデルとする平和主義的闘争から、暴力手段も辞さない武装闘争、その組織の頭になっていきました(とはいえ、人間に暴力を及ぼすのは禁として、線路や建物の破壊という手段でした。穏健で品を失わない戦いではどうにも壁を打ち破ることができないと判断したからです。その状況の中で当然といえば当然ながら逮捕され裁判になります。1964年、裁判での彼のスピーチには心を打たれます(ここでは省略)。そして第一審を前にして、彼は同志のシスル・ウォルターらと共にこう誓います。判決では死刑になる可能性が非常に高いが、いかなる判決であろうと控訴はしない、と。もし控訴すれば、南アフリカ全体の同志たちからは闘争の貫徹を捨てて、死の恐怖にとらわれていると誤解されかねない、そういう理屈からでした。反アパルトヘイト運動は自分の死以上の価値があることの証明なのでしょう。(なお、裁判長はマンデラたちの意見をある程度理解したのか、あるいは世界中からの注目を意識したのかわからないが、判決は無期懲役でした。)

 あとは、オリバー・サックスの「道程」。2015年の本で自伝です。彼は脳を専門とする医師で、「妻を帽子と間違えた男」や「火星の人類学者」など一般向けのいくつもの著作があり多くの人に読まれました。「レナードの朝」という映画、脳炎後遺症の患者がある治療法によって大きな回復を果たしたが、しかし時間とともにまた元の重症障碍者に戻っていく、哀愁のこもった佳作がありましたが、この映画の原作はサックス氏のものです。
 なお、氏はゲイであることをやや詳しく書いていますが、私のような古い偏見をもつ者にとっても、全くいやな感じはしない記述でした。
 科学が進んだ今、従来は精神科的なものとされた病気も脳の物質的異常ととらえることが可能になってきていますが、何十年かして精神科と脳内科が境界がなくなり一つのものとなったとき、サックス博士の業績は先見性にあふれたものとして古典的な本になるのではないでしょうか。

 それから、B.ワルターの半生の自伝(アメリカに定住する頃までの約70年のこと)、「主題と変奏」も読みました。私にとって音楽は趣味ともいえないものですが、自分が25歳頃のとき、何かおもしろくないことがあったその日の夜、レコードでワルターのモーツアルト40番を聴いた。その音楽の哀しみの奥に感じた、何とも言えないワルターの暖かさ、やさしさ、それがずっと忘れられず、自分にとって特別な指揮者でした。
 この本を読んでもワルターのやさしさに満ちた人間性をいたる所に感じました。もちろん、十代にすでに自他ともに理解されていた音楽に関する天才的な能力、あるいは指揮者としての厳しい態度など、けっして暖かいだけではない氏のすばらしさも随所にみられます。
 なお、専門の音楽以外の知的世界、ヨーロッパの古今東西の文学や哲学への造詣の深さもいたるところでもみられます。ワルターのすばらしさは音楽的才能と豊かな感受性のみに基づいているのではなく、、ヨーロッパの深い知的伝統の上にのっていることがよくわかります。(一方では同じヨーロッパが、植民地支配を生み、ナチスの野蛮を生んだのではありますが。)
 印象深いのは、ワルターが自分の性格を内向的ととらえていることです。指揮者であるからには外向的な側面もたぶん必要なはずで、10代、20代には内気であるがゆえに(演奏者一人一人に気を使うから)、何かと苦労したと書いています。しかし人間的成熟がそこを乗り越えた。芸術家にとって内向性は必要不可欠なものと推測しますが、優れた指揮者はすべからく、その微妙なバランスが必須なのでしょうね。

 3 折にふれて読んだ本

 ・グローバルサウスの逆襲 池上・佐藤 2024
・核燃料サイクルという迷宮 山本義隆 2024
・未来のための終末論 大澤・斎藤 2023
・人間の証明 角川 2024
・不思議なキリスト教 橋爪・大澤 2012
・ドキュメント異次元緩和 西野 2023
・現代思想 カフカ 2023
・日本左翼史 池上・佐藤 全4冊 2021~2023

4  佐渡への旅

 同級生で親友だった冨崎安夫君、去年の秋に電話が来て体調がやや悪いと聞いていた。春になったら必ず佐渡に行くと約束していたこともあり、4月の末、相棒のOさんと一緒に車で出かけた。なお、2月に肺炎ですでに亡くなっていたことはきいていたので、故人を偲ぶ旅行になってしまった。フェリーでは新潟から2時間半、23日の小旅行。冨崎の家に行き、奥さんの話を聞きながら故人をしのんだ(神道なので仏を拝むという表現はしない)。(冨崎安夫君を偲ぶ

 帰りに相川の金山を訪れた。賑わいをみせていた。(その数か月後、世界遺産に登録された。)

 トキも見に行った。
 なお、30年ぐらい前に佐渡に2回行っているが、その時に比べ島全体では人が少なく、店もしまっている所が少なからずあるようだった。コロナ禍の影響が強いと思われた。

 帰りのフェリーでは2時間余りの間、デッキの椅子に座ってずっと外を眺めていた。遠ざかる佐渡ヶ島、青い空、白い雲、船がよせる波の音、顔をよぎるそよ風。穏やかな船の上で、心は故人の人生を、そしていずれ訪れるであろう自分の終末と人生の短さをぼんやり描いていた。


 5 保険医協会に参加
 2023年のある日、ゴルフ仲間のT先生と雑談していた際、何かと問題あるマイナンバーカード保険証について、日本医師会が問題視していないのは変であり良くないと、私が言ったのでしたが、T先生も同意されました。その何か月後か、T先生から秋田県保険医協会の理事にならないかというお話があり、少し考えて同意しました。2024年7月から月に一度秋田市での理事会に出ています。県の協会長は草彅先生。先生とはそれまで話をしたこともなかったはずですが、私にとってはずっと思い入れのある方です。
 先生は湯沢高校の2年上の先輩です。高1の頃、私は全く学業をおろそかにしていて、友人と酒盛りなどをしていましたが、2年になりこれでは自分の将来は暗いとわかりました。心機一転して真面目な高校生になりました。目標と励ましは、学校から渡された湯沢高校の進学状況でした。それをみると二年先輩に優秀な方がいて、T大学とK大学という一流大学の医学部の両方に合格している人がいる。その人が草彅先生だったのです。私はその後、気がゆるんで一流大学には入れませんでしたが、医者になってからも先生のことは心の中から消えていませんでした。今から20年前ぐらいに、先生の叔父さんを診療することになり、ついには高齢と心臓病でお亡くなりになったのですが、そのころから先生と年賀状の交換はしていました。
 先生も医師であるとともに社会の動きや問題点について強い関心をもっていらっしゃることは何となくわかっていましたので、2024年の年賀状の私からの挨拶には、「世の中いろいろとむずかしい問題にあふれているが、理想は捨てないで少しでも努力していきたい」、みたいなことをたしか書いた覚えがあります。
 究極的な理想と手段への考えは先生と自分とでは同じでないかもしれないが、先生が秋田県保険医協会を率いている限りは、微力であってもついていきたいと思っています。
 なおその会では、秋田市の歯科医の酒樹先生ともお知合いになれてうれしかったです(たしか先生も湯沢高校の出身です)。

    参考 マイナ保険証の問題点


 6 同級生との会

 30歳頃から、湯沢中学校2年6組の同級会を毎年夏に行っています。(コロナ禍の3年は休止)。
 40年間、毎年です。近年は10数人ぐらいですが、東京から画家の高橋俊明君も来ています。いつも奥様を連れて。毎年の会なので、もはや目新しい話題もないし、昔胸をときめかせた、異性の同級生にも緊張感は感じないのですが、世間話や近況などで話はつきません。もはや兄弟姉妹みたいなものです。
 数年前までは2次会でカラオケを歌い合っていましたが今は一次会で散会です。
 まだしばらくは毎年続くでしょう。楽しみにしています。

 7 囲碁の上達

 60歳以上になると碁が強くなるのはまずないはずです。しかし、ここ数年2級でやっていたパンダネットで、今年の半ばから1級でやっています。碁の本はまず読んでいませんし強い人から習っているわけでもないのに------。もともと仕事が終わってから酔狂でやっている碁なので自慢することでもないわけですが、布石を少し工夫したこと、中盤でやや注意深くなったことなどが好結果に結びついている気がします。とはいえ初段の人には負けるわけで、決定的な欠点を自分ではわかりません。たぶん用心しすぎと読みの浅さかも。遊びなのでいいんです。

ーーーーー