冨崎安夫君を偲ぶ

          山本 久(1期生)

秋田大学医学部の同窓会誌に出したものです。
 (令和6年)

 今年の3月、思いがけない訃報だった。2年前に右脛骨、腓骨を骨折した。小児期からの持病、骨髄炎があり手術は困難とのことで車椅子の生活になっていた。そこに前立腺がんが見つかり放射線療を30数回受けて希望をもって生きていた。去年晩秋に電話を受けたとき私は、「春には佐渡に行く、どういう姿になっていても必ず会いに行く」、と約束していたのだったが---。その後、肺炎に罹患しこの世からいなくなってしまうとは全く予想していなかった。

 友人の少ない私にとっては学生時代からの貴重な友、同級生の中では唯一の親友だった。50年前をつい昨日のように思い出す。365日中たぶん250日は夜に一緒にいた。2年生から3年生の頃だ。3回に2回は私の殺風景な下宿にきて、3回に1回はきみの貧相な住み家でいつまでも一緒にいた。きみもまだ友人は多くなかったが(他には本間滋君)、とても話好きな男で、8割がた一方的にいろんな話をしていた。その頃は日本の文学に凝っていて、とりわけ源氏物語のすばらしさを幾度となく話してくれた。文学部で特別に訓練を受けた者にしかふつうは原文で読むのは困難だが、きみは原文でも理解できると言っていた。(とはいえ実際は与謝野晶子か谷崎潤一郎の訳で読んでいたはず。) 光源氏は3歳で母桐壺更衣を亡くした。その後の人生はいろんな女性を巡る物語になるのだが、私には永遠の女性を求め続ける男の話に思える。そしてきみも4歳で最愛の母を亡くしたのだったね。産褥の床で。

 話が変わるが、きみは産婦人科医として5年間仕事した後、不本意にも内科に転換した。本当は優秀な産婦人科医としてずっと続けたかったのだが、後日、私に言葉少なに語ったことには-----。自分は母を失った同じ病気で受け持ちの患者さんを亡くしてしまった。(O病院での上司I先生は海外旅行中でいろいろと困難な状況だったという。) 医者をやっていれば人生の中で無念な患者の死というものは誰にでもあり、その中で強くたくましい医者になっていく、という図式はありうるだろう。しかしきみの繊細さは耐えられなかった。弱かったからではないと思う。運命の残酷さに勝つことができなかったからだ、ソポクレスのオイデプスのように。

 心機一転して内科医になった後も、エネルギッシュに仕事に励んだ。郡山市の坪井病院で訓練され優れた内科医になった。その後、故郷の佐渡は相川の町立病院に懇願され渡った。顔では喜んで、しかし本心は一流病院での仕事を続けたかった。

 相川では長年院長の重責を果たした。佐渡は慢性の医師不足で医者の仕事よりも、医師補充のために新潟大学の教授室に行っての懇願が主業務みたいなものだったという。私と同じで、人に頭を下げるなんてなんとも苦手で、かなり予定外の仕事だった。そんな中で時には幼年期からの持病、下肢の骨髄炎の再燃に苦しみ、あるいは学生時代にも兆しはあったうつ病にさいなまれた日々もあった。(幼年期の母の喪失は、うつ病発症の背景になりうる、と同級生の精神科医からきいたことがある。)

 きみと特別な親友になったのは、2年生の春だったと思う。それまでは何となくの友人だったが、ある日私と本間君の前でこう言ったのである。「おれはもう大学生をやめなければいけなくなった。家の事情が急に悪くなって学費生活費を続けられそうもない。持病の骨髄炎もあり無理なバイトもできない」。 こちらはたいへん驚いた。せっかく入った国立大医学部を経済的理由で退学するなんて聞いたことがなかったからだ。私は少し考え言った。「おれの知っているかぎり、秋田県の厚生連病院では卒後の義務年限はあるものの、まあまあの金額の奨学金制度がある。質素な生活なら何とかやっていけるはずだ。おれの知人も湯沢の雄勝中央病院からもらっているよ」。

 彼の沈鬱な表情はすぐには変わらなかったが、数日後その病院を訪問したという。そして奨学金をもらうことにして、まずは一件落着したのだった。私はたいしたことをしたわけではないのに、以後彼は、私と湯沢に急に親しみを感じたらしく、その後秋大の影絵クラブで一緒、まもなく親密になり結局は26歳で結婚することになる千津子さん、彼女もなんと湯沢市の私の実家の近くの出身だった。(相川病院時代もことあるごとに嫁さんの実家にきて、私も32歳からはずっと湯沢にいたので、幾度となく酒を飲み近況を話し合ったものだった。)

 なお、千津子さんという名前を23歳できいたとき私は少し驚いた。冨崎はその頃は川端康成に凝っていて、その代表作に「千羽鶴」というのがあり、彼女の名がその小説名を連想させるものだったから。川端は幼年期に両親を亡くし孤児のように育った。冨崎も4歳で母がいなくなった。冨崎には美貌の姉がいて全くの孤独な子供ではなかったものの、川端の小説の紙背にかくれている途方もない孤独感を心から理解していたのだと思う。(なお、姉は若かりし日に新潟県の美人コンテストで優勝した。その後、佐渡行きの船上で東大生と知りあい、後に結婚しヒューストンに30年ほど住んだ。夫はその業界(石油工学)では第一人者であり続けた早稲田大学名誉教授森田信男氏。)

 学生時代に戻るが、4年生以降は相手の下宿を訪ねることはずっと少なくなった。臨床医学の学習で多忙になったせいもあるが、二人ともまあまともな医学生になったということだったか。特に冨崎は同じグループの寺島、豊島という優れた知性のそばにいて刺激をうけ勉学に励んだ。(一方の私は目覚めるのが遅く、野球と麻雀がまだ生活の多くを占めていた。) ちなみにそのグループは後日、5人中千田を含め3人が各大学医学部の教授になった。秋大では珍しいのではないだろうか。

 以上、医学とあまり関係ないことばかり書いてしまった。でも本当に仕事は精一杯やったよね。持病がありハンディキャップがあったからこそ、患者にはとてもやさしかったのだと思う。

 なあ冨崎よ。きのうクラリネット協奏曲の第二楽章を久しぶりに聴いた。ユーチューブをいじっていたら偶然に。豊永美恵という奏者がとてもよかった。3年生の時だったか、千津子さんと影絵クラブで知り合って間もない頃、哀愁に満ちた物語の上演を皆さんで頑張っていたね。その影絵の背景にきみはこの音楽を選んだ。ぴったりだったな。これからのおれの人生の中で、あと何回この曲を聴くかわからないが、聴くたびに必ず思い出すだろう。モーツアルトの悲しみとともにきみのことを。

 いや、言い足りない。悲しみもあったがそれに劣らず喜びも多い人生だった。強く美しい奥様とともに、男の子3人をしっかり育て上げた。そして何よりも、苦難をのり越えて、医師としてひそかには誇らしくもっていたはずの、仁・愛他の心にあふれた人生だった。




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