人間(男)の潜在的性質の中に、
「好戦的な」ものが存在する


---遠い戦地から帰った自衛隊員の死体と棺が、白い布と日の丸に包まれて、おごそかに空港に降ろされたとき、現政権の目標は達成されるだろう。(そしてみるみるうちに、日本国憲法第9条は、捨てられるだろう。)
 しかし、現代という時代においては、そういう感性は危険であり、「悪」であることを多くの人々が認識するべきである。

 古来、人間はときに血を流し、命を捨てながら自分の地域や民族を敵から守ったかもしれない。
 だが、現代は何もかもが違う、と私は考える。

人間、といっても女の心はわかるわけがありませんし、、人間一般の本質(性質)についても、63歳の今もってさしてわかっているわけでもありませんが、一言いいたいのは、自分を含む男の潜在的特質として、闘争や戦いを好むものがあると思います。
 だから、戦争や闘争に関する映画や物語は、古今東西時代を超えて人気があるし、また格闘技やサッカーなども国境を越えて、人々の血を沸き躍らせる。その理由は、人間の血の中にそういう本能が存在しているからでしょう。

その源は、人間がホモサピエンスになる以前に遡っての、生物的な必要性にあると考えていますが、科学技術が進歩し、それに応じて、武器がとどめもなく大規模になってしまった現代・未来においては(その究極が核兵器)、社会の指導層にあたる人たちは、この人間の危うい本能を十分に意識し、その「負の側面」を十分に認識したうえで、国を運営していかなければいけないと思います。
間違っても、その好戦性を利用して、金を儲ける手段に使ったり、国の団結を固めるのに悪用してはいけない。

戦争が始まるとき、人間集団は、その戦争が本当に必要なものなのか考えないで、戦争を美化するようになります。1941(昭和16年)の日本は全くそうだったはずだし、他国の戦争においても歴史を紐解けば、だいたいそうだったはずです。戦争を美化するようになると、戦争の負の部分は忘れ去られたり、表現したくても禁じられるようになる。
 
また、自国の人間が戦争で死ねば、多くの人々は、「この死を無駄にしてはいけない。仕返ししてやっつけろ。」という、扇動に簡単に乗ってしまうし、それを扇動だと言えば、「国賊」と言われるので、心ある人々は口をつぐんでしまうようになる。

他民族による理不尽な占領や、自国の文化を抑圧する屈辱的な支配に対しては、現代でも地球上のどこかには血を流さなければいけない人々が、確かにいるであろう。しかし、今の日本においてはそんなことはなく、現代文明がこのまま続く限りは、未来においてもあり得ない、と私は考える。
原発や、軍備の増強こそがそれらよりずっと危ないはずだ。