経済学者の宇沢弘文氏は、旧制高校から大学に進学する際、彼自身が、古代ギリシアにおいてヒポクラテスが医の道に志す若者に必要だとした資質、すなわち「高潔な人格とすぐれた能力」をもち合わせていないと判断せざるを得ず、「医学部進学を断念して数学科に進んだが、そのときの挫折感は、ずっと重苦しく私の心に残りつづけた」、とのことである(日本医事新報、20074月14日号)。

二十歳にしてすでに「高潔な人格」をもった人間に、残念ながら私はいまだ出会ったことはないし、そもそも現代においてこの世のどこかに、そういう若者が存在するのかどうかも疑ってはいるが、宇沢氏の文章は真実味にあふれていて、彼が二十歳頃にそう考えたのは、けっして嘘でも誇張でもないと私は信ずる。

翻って、わが身を省みると、-----------。医学部を受験した頃の自分は、「人格高潔」とは無縁であった。いや、「自分に医師になってもよい資質があるのかどうか」、という自問を心に浮かべたことすらなかった。(万一、宇沢氏のような高い倫理観を、18歳の私がすでに保持していたなら、当然、別の学部に行くしかなかったであろう)。

しかも思い出せばなお悪いことに、運良く大学に入ってからも2,3年間は、自らがもつ(ささやかな)エネルギーの多くは、自分勝手に興味のある医学以外の方面に向かっていた(その内容はここには書けない)。また、1期性だったがために幸か不幸か、留年なしで進級し続けることも可能だった(何を言ってるか理解不能の方もいらっしゃるでしょうが、これについても解説は省略いたします)。

とはいえ、自分なりには、「それで仕方なかった」、という思いもある。医学部に入った時点では、何しろ頭の中に雑念が多くて、医学の勉強に自己のもつエネルギーの大部分を費やす気には、とうていなれなかった。同級生の多くも似たりよったりであったろう。

一方、今の学生は6年の間に、牧歌的な3,40年前とは比較にならない、大量の知識の習得を必要とされているときく。余計なお世話ではあろうが、かわいそうと思う。

なぜかわいそうなのか。その理由は、(私ごとき田舎医者より先に、世の識者がしばしば述べているように)、いくら科学的知識の繁栄があろうとも、臨床医となって仕事するのなら、科学的知識と同等かそれ以上に大切なものの習得が、学生には必要であろうと考えるからである。いや私は、英語とか、医師患者関係におけるマナーや技術などを念頭においているのではない。私の言いたいのは、たとえば次のようなことである。

・老年以前に重要な病気になる人の多くは、「不運」な人である。一方、今の時代に医学部に入学する人の多くは、たぶん「運のいい人」であろう。恵まれた家庭、親の経済力、これまでの教育環境などにおいて。私見では、幸せな人は不幸な人への想像力(厳密にはこれはサルトルや大江健三郎の用語ですが)、を欠きがちである。

人は誰でも幸せになる権利がある。しかし、臨床医は、他人の「不幸」や「不運」にせめて半分ぐらいは共感する心が必要でないかと私は思う。そしてこのことは、「病気」にしばしば伴うところの「貧困」についても同様であろう。

医師という職業人は、一方では困難な課題の多い「現代」という時代に生きる一人の人間でもある。現代的課題とは、いくら大きい問題ではあっても、今もしくは近未来に生きる人間全員に関係しているから、他人任せにはしたくない。たとえば地球環境問題。あるいは日本・東アジアの政治的問題(政治問題は歴史と分断不可能である。人々の心には、各々の記憶と苦悩が塗りこめられている)。正しい解決策は、その問題に関係する事柄についての正しい認識が絶対的な必要条件であり、思いつき的な意見は無知な人間からは歓迎されようとも、その問題の解決とは全く関係がない。医師は高学歴であり、プロフェッションなのだから、国民の平均レベルよりはずっと高い見識を専門外においてももつことを目標にしたいと思う。

 以上のようなことを身につけるためには、いろんな方法があろう。他分野の多様な人間と知り合い、話を聞く、あるいは国内外のいろんな土地を旅して、自分の目で肌で他所のことを知るなどなど。しかしいちばん容易な手段は、本を読んで正しい知識を得ることではないだろうか。

医師になってからしばらくは、仕事や雑用、そして技術・知識の習得のため、学生の時よりは比べられないほど、おそろしく忙しくなってしまい、上にあげたような雑学の知識は、卒業した時点からはしばらくは(最悪の場合は一生)、全く停滞してしまうであろう。

だからぜひ学生時代にいっぱい、他分野の本を読んだ方がいいと思うのである。

専門職としての知識習得で精一杯で、お前の言うようなことは現実では不可能だよ、と言われるかもしれない。もしそうなら、私が間違っているよりは、制度か何かが間違っているのだ、と考えたい。

なお次の文章は加藤周一氏のものであり、比喩的な意味も十分にこめられていて、この考えは臨床医にも研究者にも大切ではないかと思う。「テクノロジーは発達しますから、たとえば性能のいい自動車がつくられる。運転はだんだん簡単になってくるでしょう。しかし休みに自動車を運転してどこへ遊びに行こうかというときに、どこへ行くのか決めるのは誰のどういう仕事でしょうか。(中略)その自動車に乗っ

てどこへ行くかは、テクノロジーとは何の関係もない。」 

 若いとき他分野の本をいっぱい読もう

平成19年に秋田大学医学部の同窓会誌に掲載されたもの