★★★★ 日本の反知性主義 内田樹編 晶文社

 まえがき(の途中)に、内田氏は次のように書いてます。

----安倍政権による民主制空洞化の動きはその後も着実に進行しており、集団的自衛権の行使容認、学校教育法の改定など、次々と「成果」を挙げています。
 しかし、あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導くはずのこれらの政策に国民の40%以上が今でも「支持」を与えています。長期的に見れば自己利益を損なうことが確実な政策を国民がどうして支持することができるのか、正直に言って私はその理由がよく理解できません。-----

 こういう疑問から、内田氏は11人に寄稿をお願いし、9人が寄稿してくれてできたのがこの本である。なお、寄稿しなかった2人も、刊行の趣旨には賛同したとのこと。
 
以下にその内容を自分なりにまとめてみました。

まず、編者の内田氏のから。「反知性主義者たちの肖像」
米の反知性主義について語ったホフスタッターによれば、反知性主義者は、無学でも無教養でもない。むしろ知識人のはしくれ、自称知識人、仲間から除名された知識人、認められない知識人などである。そしてしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。これは、日本でも同じであろう、とのこと。
 また、ロラン・バルトによれば、「知識に飽和されているせいで未知のものを受け入れることができなくなった状態をいう」。
 私らを含め、「自分はそれについてはよく知らない」、と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。人の話をとりあえず黙って聴くとか、自分の内側に照らし合わせて、その意見を判断していく。一方、反知性主義者は、その逆で、すでに「真理」を知っており、人の言うことに影響を受けることはない。「理非の判断はすでに済んでいる。だからあなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」、と私たちに告げる。

 フゥーー。たしかにおれの身近にもそういう人がいたな。彼はとても知性のある人だった。一流大学も出ていた、人生経験も乏しくはなかった。でも、まさに、内田氏の描く、反知性主義だった。そして、私を含め、多少の知識をもった人間こそを小馬鹿にし、彼が愛するのは、歴史などについてまさに、「知識のない人々」だった!

内田氏は、他にも、反知性主義を特徴づけるポイントについて述べています。「広がりのなさ(非社会性)」、「無時間性(時間をかければ結局はその虚偽が、比較的簡単に証明されるのに、今、目の前の敵を威圧することにのみ熱中する」などのことです。
 約40頁にわたる内田氏の論述は、反知性主義についての概論というべきもので、とても勉強になるし、また共感できるものです。

・高橋源一郎氏の寄稿の題名は、『「反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあ何について書けばいいのだろう、と思って書いたこと』、と長いです。

氏いわく、「反知性主義」って、いいことばじゃないから、そのテーマについて、書く意欲がわかない、好きでないものについて、書いたり考えたりするのはとても疲れる、と(他の多くの寄稿者も、これと同じことを述べています)。これにつられて、私も一瞬、読む気をなくすのですが-----

ところで、この項の前の白井氏や内田氏は「思想家」でもあり、文章が多少難解になりがちですが(たとえば「ポストモダン」とか)、高橋氏の文章は、小説家であることもあり、また、「下から目線」であることもあり、少しも難解なところはありません。それどころか、論理的なことを書いてるのに、なぜか感動させられ泣かされます。重いことを、軽い文体で書く、現代日本では、この手法の第一人者でしょう。

末尾の、『「知性的」なものとは、「女性的」であることをどうしても必要としているのかもしれないと思えるんだ』、という彼の思いから、私は老子思想の根本の一つをなす、次の言葉を連想させられました。

固くこわばるものは死の仲間であり、
柔らかくて弱くて繊細なものは、
まさにいのちの仲間なのだ。
(老子 第76章より 加島祥造訳)
 老子の思想は反知性的にみえて、実は、なかなか私のような凡人にはみえにくい、深い知について、語ってるんですね。



 ・白井聡 「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」
 彼はまず、反知性主義が現代において日本社会に限ってのものではなく、世界共通の土壌がある、とみなしている。その原因は二つありひとつは、1980年代から世界で顕在化した、資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は、民主制の基本的モードにならざるをえないこと、二つ目は、近代で長らく知性の理念とされてきた「人間性の完成」、それがポストモダニズムにより、地に落ちてしまったこと、その2点が考えられるとのことである(むずかしいですね。すみません。第1点は、何よりも金、金、金、金が全てで、それに比べたら、倫理性とかこれは正しいことだからあとには引けないといったような知性そのものも、二の次、三の次という経済優先の世の中、企業論理はもちろんのこと、一般市民の生き方もそれに流されるようになり、また貧富の差も拡大し、こうしたことが、民主主義の基本となる選挙の動向にも強い影響を及ぼしている,ということでしょうか。また第2点目は、学問・思想の世界でも、知の最先端は、行き過ぎてしまって----ポストモダニズム----、むしろ知を小馬鹿にするようになってしまった、というようなことでしょうか)。

 (以下作成中)