亡き斎藤敏昭先生に

 2019年7月・秋田県医師会の月報に投稿したもの

 昨年の夏、船越の施設でお会いしたときは、とてもお元気でしたのに、先日、先生はすでに1月だか4月だかに亡くなっていると、ご子息の昭先生からお聞きまして、驚いたとともに、哀切の念にうたれました。ここ数年は疎遠になっていましたものの、30余年もの間、親しくつき合わせていただいた者として、そしてまた、去年の夏に、「また先生に手紙を書きます」と、口約束した者としてお便りを書きます。ただし、あの世に行ってしまった先生に住所はないので、過去に先生も長年、常任理事を続けたこの秋田県医師会の医報をお借りしまして、くだらない私の雑念を書き留めておきたいと思います。

先生は県医常任理事を長くつとめられたほか、20数年間もの長い間、湯沢雄勝の医師会長をつとめられ、同時に湯沢雄勝医師会病院の創立と発展にたずさわり、組織のリーダーとして、人間味にあふれたご活躍を続けられました。その有能ぶりについては、私などよりは、もっと斎藤先生に近い年代の湯沢雄勝の先生方や、県医でご一緒に活動された方々が、よくご存知でしょう。

私が斎藤先生と初めてお目にかかったのは、6年間いた秋大の心臓外科医局を自分勝手に出た後、縁があって雄勝中央病院の内科で働くようになった間もないころでした。まだ32歳なのに、大学医局のどこにも属していない、ましてや先日まで外科をやっていた奴が、ぬけぬけと内科医を自称している。湯沢のとある医師は私のことを聞いて、「そういうのが一番危ない」、といったそうです。私は軽蔑されると、逆に思いがけないエネルギーが沸き立つほうなので、2年後には湯沢でそんな風に言う医師は誰もいなくなっていましたが。

それにしても、その病院では私以外は皆、どこかの大学医局に属しているのに、自分だけがどこにも属していないことの孤独感、不安感は経験した者でないとわからないでしょう。その頃の半年間、私は自分を暗い海の底で単独行動で生きている深海魚、とイメージしていました。

 そんな中で私は先生に出会った。湯沢雄勝医師会では、その頃も今も、月に1回の勉強会、「秋の宮クリニカル・カンファランス」が行われています。ある夏の日、ノコノコ出ていって最後列に座っていた私に、先生はわざわざ近寄ってきてくれて、優しく声をかけて下さいました、例のあの嗄れ声で。「やあ、これからも毎回出ておいで!」----私は気の弱い人間で、どこかに属していないととても不安なタイプです。先生のお言葉は、私にはとても嬉しいものでしたし、生き返る一因にもなりました。

 その後「秋の宮CC」にはほとんど毎回出るようになり、5年後にはまだ36歳の勤務医だったのに、医師会の理事に選んでいただきました。開業してからも20数年間、地元医師会の活動にたずさわることになったのも、私としては先生の人間性にひかれたからでした。

 理事であった10数年間は、先生とよく手紙のやりとりをしました。社会についての考え方が私たちは似ていた。おそらく先の戦争の時代を知っている先生にとっては、戦前も戦後も同じような人間たちがこの国を統治していることに、ずっと危機感をもっていた。私は子供の時の家庭事情から、「貧乏」を体で知っているせいか、現代の日本社会、特に新自由主義の跋扈するこの時代を批判的にみている。理由は違っていても、今の体制をよく思わない点は共通していて、長く手紙のやりとりをして、とても楽しかったのです。

 先生とは、幸子先生もご一緒に、先生の青春の地である盛岡に一泊旅行したのがいい思い出です。私の妻も同行、私が運転していきましたが、いろんな店に立ち寄り、いろんな物を見たり買ったりしたのでしたが、先生の精力的かつ細やかな、二人の女性たちへの心づかいには私も驚くとともに、巷では先生はとても女性にもてる人と聞いていたことに妙に納得したものでした。

 あれ、紙数も尽きてしましました。思い出はこの数倍ありますが、ここらでやめておきます。「まだ先生は半分生きている」、と私は思っているのですが、先生はきっと唯物論者のはずなので、そんなことは否定されるでしょう。でも、先生がこの世でなされたこと、あるいはそばにいた人間に与えた影響は、少なくとも今後しばらくは消滅しないだろう(その種のことを、人は「たましい」とか何とかというのでしょうか)、唯心論者で気の弱い私はそう思います。
まあ最後まで先生に素直でありませんでしたね。笑って許してください。

ありがとうございました、斎藤敏昭先生。