田中宣男先生の思い出

 あまり急だったので、またひょっこり、あのダンディな身なりで、あそこのドアから現れてくるような気がする--------。前にも、元気で戻ってきたことがあったから。

4、5年前だったか、彼が胆管癌の疑いで、秋田大学に入院するという直前に、励ましの意味で、松田先生と3人でとある一夜、簡単な飲食をしたことがあった。彼は意外に、終始あくまでも平静だった(そういう時って、心の中は不安の嵐が吹き荒れていても、表面は平静を装うしかできないのかもしれませんが)。私からの医者らしからぬ言葉、「先生、肥ってるから、胆管の周りにもきっと脂肪がいっぱいあって、それで胆管狭窄のようになっているんではないですか?」。消化器専門の医者である彼には、解剖学的にもばかばかしく、白々しい冗談にしか聞こえなかったはずだが、他人事のように、人なつっこい顔で一緒に笑ってくれるのである。それでも私の冗談は、半分当たっていた(胆管は問題なかった。幸か不幸か、別のところに早期癌が見つかりタイミングよく治療できた)。

 今回、中央病院に入院した夕方、面会に行ったら、人工呼吸器はついていたものの、「田中先生!がんばって」と呼んだら、うつろな目ではあったが、ちゃんとこちらを振り向いてくれた。だからこれからもずっと、先生の歌と芸術談義を聴けると思っていたのに。何でこんなに早く------

彼のことを、子供のときからなど、もっとよく知っている人もたくさんいるでしょう。近所の渡部先生や森田先生は小さいときからよく遊んでいたので、今回の悲しみは私などよりずっと深いと思う。(それにしても、そのあと森田先生までも-------)。

私は湯沢での開業医としての彼しか知らない。それも、友だちみたいになったのは、たったここ10年ぐらいだ。

時々、松田先生と3人でときおり酒を飲み、カラオケをうたった。田中先生は歌がうまかった。普通のうまいという意味ではなく、個性的な「彼の歌」になっていたのだ。そして節回しというか、細部がとても魅力的だった。特に桑田佳祐がうまかった。「波乗りジョニー」、「白い恋人達」、「可愛いミーナ」----。その時々の新しい歌、私のようなおっさんは全然知らない歌、でもその後、巷で時々聴くようになる実はとてもいい歌だった。それはあたかも、彼が若いときに映画をすごくいっぱい見て、街で評判の映画とはちょっと違う、「B級映画の傑作」を、自分の感性と鑑賞眼で発掘するという行為にもよく似たものだったかもしれない。

その合間をぬって、松田先生が歌うのは、「あなたのブルース」、「酒よ」、「襟裳岬」だ。そして私はといえば、「赤いスイートピー」、「つぐない」、「時の流れに身をまかせ」。つまり3人の中では、不健康な生活をしている順番に健康的な歌を、健康的な生活(?)をしている順番に不健康な歌を歌うのでありました(田中先生、失礼)。

そうだ、私は彼の「不良性」に惹かれたのだと思う。自分ではできなかったから。

とはいえ、私が田中先生に、それまでより次元を超えて親しみを感ずるようになったのは、次のようなことを聞いてからである。

 私は子供のときは家が貧しくて、テレビがついたのはたぶんクラスでも最も遅い方、東京オリンピックの時である。幸か不幸かそのため私はしばらく当時流行の植木等も知らず馬鹿にされており、スポーツシーズン以外は学校の図書館から本を借りて読む毎日だった(小学4年から6年までで、その中にあったほとんどの本を読んだかもしれない)。数十人使っていた事業を倒産させた父のもと、家には本などなかったのに、なぜ私が読書が好きになったかといえば、小学校で3年間担任だった菊江しょうきちろう先生が、週に一回の道徳の時間に道徳の話はせず、1年間かけて一つの長編小説を講談調で毎週読んで聞かせてくれたのが、たいへん楽しかったからである。「南総里見八犬伝」、「モンテクリスト伯(岩窟王)」。(今思えば、菊江先生は儒教的な考えをもっていたから、その時代の左翼系の風潮、個人主義的傾向へのひそかな反抗として、そのように道徳の時間を使ったのかもしれない)。

そして、その菊江先生の文学における師匠が、田中宣男先生のご祖父であることを、田中先生の口から聞いたとき、私は深い感動を覚えたのだった(ご祖父は、早稲田文学という文学誌の同人で、その方面ではかなりの人だったらしい)。

宣男先生はその方の実際の孫であり、小説や物語がとても好きだった。そして私も菊江先生を通じて文学上の孫弟子だ、だから我々は兄弟みたいなものなんだ、と二人で満足したのだった。

そのことを知る前から、私は田中先生と芸術談義をできることに、無上の楽しみを感じていた。

私は文学においてやや物知り、音楽においてどうにか話題についていけるぐらいのものしかもってないが、田中先生が0時を越えてやっと饒舌になったときの話を聞いていると、彼は数倍その方面に詳しかった。

ご尊父の紅一先生はブラームスなどがとりわけ好きだったそうだが(私もその内気な音楽がとても好きだ)、宣男先生から何回も勧められたのは、ショスタコヴィッチの交響曲、とりわけ「第5番」だった。私もCDを買って聴いてみた。しかし、その良さはわからなかった、小さいときからの音楽や文化の素養が全く違うのである。

ある日彼は、私の医院の前にダンボールにいっぱいの映画のビデオを持ってきてくれたこともあった。そのほとんどが、私のよく知らない日本映画だった。黒澤明の「姿三四郎」があったことは覚えている。残念ながらビデオの全てを観る気力はその頃はなかったので、1年間借りた後に彼の家に返しに行ったが、彼は世間の評価など関係なく、自分の目でいい作品つまらない作品を見分ける力、彼独自の美意識があることはよくわかった。医学部に入る前に、日大芸術学部に在籍したのも納得できた。

私からも本を贈ったことがあった。そういうときも、彼は必ず的確な批評の一言を付け加えることを忘れなかった。たとえば、私が好きだった長田弘の詩集「黙された言葉」には、「ちょっと表面的すぎるな」と、おっしゃったように。また、以前私がくだらない文章を、秋田医報や湯雄医報に書き散らしていた頃、誠実に評価していただいたことも、私は感謝している。「俺は久(きゅう)先生とはもともとちょっと考え方は違うが、あの意見については賛成だよ。」とか、基本的にやさしいのである。

ただし、服装については辛らつなことを何回か言われた。私が、「服装が野暮すぎる」、「今夜はネクタイがいつもと違うが、全然合わない」。そう言われても私自身同感なので、全く腹は立たないのである。たしかに服装は、その人の「文化力」や「育ち」をよく表す。

結果的にあまりにも早い晩年だった彼の生活は、きっと寂しいものだったろう。昔小さい頃、ご両親、おじいさんおばあさん、そしてお姉さんと妹さんに囲まれて暮らした同じ家に、夜に独りでいるなんて、繊細な心の宣男先生にはとうてい耐えられなかったはずだ。おそらくは若いときは男としてわがままなことをした、だからそうなったともいえるかもしれない。私自身、彼を「退廃している」と思ったこともあった。しかし、男としての彼のわがままさえも、「心があまりに純粋で美しかったからこそ、どうしても避けえなかった宿命的なもの」、として私は理解するようになってきていた。

そういう田中先生にもう会えないと思うと、本当にさびしい。なぜもっと、もっと、夜遅くまで酒を一緒に飲み、タバコを吸いながら、いろんなことを教えてもらわなかったのかと悔いが残る。


理性は誤るとしても感情はどうか

泉のように噴き出て尽きることのない感情は

たとえそれが人を破滅に導こうとも

正しい

 

白いしっくい壁に罅(ひび)が走っていて

極地の氷原に残された犬橇(いぬぞり)の跡のようだ

「いずこへ?」と問うとき人はみな

心の底でその答えを知っている

   (谷川俊太郎 「嵐のあと」より)



私はたった1年の間に、1947年生まれの2人の兄を亡くした。一人は実際の兄、他方は田中宣男先生という兄であった。

平成17年の記: