山本孝史さんという国会議員を知ってますか? 衆議院議員を2期、参議院議員を2期つとめた民主党議員でしたが、昨年(平成19年)の暮に、58歳の若さで残念ながら、がんのため他界されました。各新聞に報道されましたから、大阪の人でなくても、知っている方も多いと思います。
 彼はもともと、主に厚生関連の方面のプロでしたので、国会では、薬害エイズ、臓器移植法、年金、介護保険などについて、国会議員の先頭に立って仕事をされてきた人です。しかし、山本孝史の名前は、彼が早すぎた晩年の2年間に命をかけて成立させた「がん対策基本法」に、末永く日本社会のなかで、そして日本人の記憶として残り続けていくでしょう。
 私は山本氏の妻ゆきさんと、小中学校で同級生だった関係で、山本さんとも何回かお話する機会がありました。普段のときは、控え目で温厚な方でした。しかし、国会での活動では、あの細めの体のどこにそんなエネルギーが隠れているのかと不思議なほど、活動的だったのです。
 その源は、彼の心の中にある、弱い者や不幸な方々に寄り添う人間としての並はずれた繊細さと、社会の改革への強い動機づけにあった、そう私は思っています。

 彼が5歳の時に、3つ年上の兄が自宅前でトラックにひかれて亡くなられた、そのことが後の彼の人生を決定づけたのは間違いないでしょう。学生時代やその後国会議員になる前までは、「あしなが育英会」という、交通遺児の会の中で、いろんな活動を行っていました。国会議員としても約14年間、よりよい日本の社会をめざして働き続けました。
 しかし、もしこの世に神様がいるのだとしたら、なんと残酷なのでしょうか。私欲にまみれた国会議員だらけの中で(と、私は思っていますが)、、最も私欲とは縁遠い山本氏は、平成17年暮れに突然「進行がん・転移あり」と診断されたのでした。

 とはいえ、彼の本領はここから発揮されました。二人に一人ががんになる今の日本で、医療の世界では、あまりにも不完全なことが多すぎる。これは患者各人や各病院毎の問題なのではけっしてなくて、日本の社会の問題、政治の問題なのだと彼は考えたのです。進行がんの宣告からたった半年後、彼は国会の代表質問の場で、「がん対策基本法」の必要性を、淡々と、しかし熱く語りかけたのです。残念ながら、私はこのときの中継のテレビは見ていませんが、彼の演説が終わったとき、党派を超えて、共感の温かい拍手が議事堂の中で鳴りやまなかったそうです。
 それから数ヶ月後、これまた党派を超えた賛意とスピードをもって、「がん対策基本法」は成立しました。彼の熱意によって、日本のがん医療は、ようやく本格的に整備されようとしています。

 アメリカなど諸外国では、議員立法で重要な法律が成立した場合、その中心となった国会議員の名を末永くとどめるべく、その名をその法律の通称にするという習わしがあると聞いています。
 山本氏には生前、「議員立法」という著作がありました。ほとんどの法案

を官僚が作る日本の事情を憂えて、もっと国会議員が立法の中心に、名実ともにいなければならない、という彼の考えを著した本でした。そして彼は、進行がんの体にむち打って、「天命」を成就させたのです。
 彼のすばらしいお人柄と人生、その名をを日本の中で永遠にとどめおくために、「がん対策基本法」を、「山本法」と今後は呼ぼう。私の身近でこう提案したのは、O病院N院長ですが、私も心から同じ気持ちを日本の人のすべてに呼びかけたい思いです。



「がん対策基本法」を、「山本(孝史)法」と呼ぼう