コンクリートの国からの脱却を

たぶん平成14年の記(そのため内容の一部に、古くなっているところがあるかもしれません。とはいえ、本質的な問題は、何ら変わっていません。)

近くの東成瀬村に「成瀬ダム」が建設予定になっている。
この期に及んで、何のためのダムなのか。きわめて強い疑問がある。
「美しい日本」と唱える人たち。まさにそういう輩たちが、美しい日本の自然を壊しまくっているのである。

 “固くこわばるものは死の仲間であり

柔らかくて弱くて繊細なものは

まさにいのちの仲間なのだ“

(老子 第76章より 加島祥造訳)



  成瀬ダムとは

 十文字から増田を通り、東成瀬村に入ってしばらく進むと、右に曲がって須川温泉・栗駒山へ行く登りの道となる。以前は車がすれ違うのもやっとの細い林道だったが、今はゆったりとした舗装道路である。山菜取りのシーズンは県外ナンバーの車も多く道端に止まって賑わっている。ブナの原生林を含む周囲の広葉樹林はとても豊かで、とくに新緑と紅葉の季節は村民にとってのみならず、近隣に住む私たちの心をも、なごませてくれる。実際、1997年までは森林生態系保護地域に指定されていた。無謀な公共事業で破壊され続けている日本の国土の中では、人間の手が入ってない貴重な「魂のふるさと」とでも呼びたいような自然環境である。

道路の右方は深い渓谷になっていて、上からは容易に川面も見えないほどだが、車から降りて川べりまで歩くと、まさに清流であり大気もすがすがしい。

 このような桃源郷を一面のダムにするという計画があり、現在すでに工事用の道路が作られている。また人工衛星との通信による測量調査のための空間確保のために、すでに相当数のブナの木も切られている。貯水量7870万トンのこの大型ダムは、平成??年に完成予定で、総工費は1530億円である。昨年、地元選出の自民党幹部M氏や湯沢市の県議T氏らが、そろって鍬入れの儀式をしていたテレビニュースに記憶がある方もおられるだろう。しかし本格的な工事はまだ先の話である。

 ダムの目的は、下流地域の農業用水・水道水の安定供給、不特定利水、洪水予防、発電などとされる。

 

ダムはなくても全く困らない

 さて、このダム、本当に必要なのだろうか。結論から言うと、まったく必要ないのである。現に誰が今困っているか?(現在、全国で計画されているダムのほとんどが同様に無駄なものだ。長野県知事選挙にみるように、田中知事の対立陣営でさえ、長野のダムはもう要らないと言っていた)。

 成瀬ダムに関して、国は昭和20年代にあった洪水の例を出して、このダムの必要性を訴える。しかし百五十年に一度の洪水の予防に1530億円かけるとは狂気の沙汰である。洪水が心配ならば、国家が農民らに対して補償金を用意しておけばよい。灌漑用水の確保?これも今の状態でほとんど困っていないし、秋田県において、米の凶作の多くは干ばつとは逆の、日照不足が原因である。

 下流のJ町などの農民の多くは、このダム計画が灌漑用水路整備とワンセットで出されているものだから、すでに容認の印鑑を押していると聞く。しかし、成瀬ダムがなくても、下流地域の農業は十分にやっていけるのだ。

 なお、ダムにも寿命があるということは銘記しておきたい。ダムには土砂が堆積するからだ。百年後、2百年後の私たちの子孫が、その廃墟をどんな気持ちで見るだろうか。清流は簡単には戻らない。

 広大な国土のアメリカでさえ、主として環境への配慮から、現在ダムはまったく建設しない。狭い日本ならなおさら配慮するべきだろう。この現代ではどうしても必要な場合しか、泣く泣く造る以外は、ダムを造るべきでない。ダムとは違うが、あの貴重な環境資源としての諫早湾に、まったく不要な公共事業の「巨大ギロチン」が落ちたとき、あの日の日本人の心の痛みを、私は忘れない。いま地球上では、11万種の生物が絶滅の脅威にさらされているという。ダムなどによる環境破壊と、現在進行形の地球の悲劇とは根を共有している。「人間の傲慢さ」という点においてである。もういいかげんにして、我々も目覚めないといけない。

 

 湯沢市の水道も成瀬ダムから

 ダムができると、湯沢市の大部分(旧市内、岩崎、弁天、関口など)が成瀬ダムから水を取ることになる。国土交通省のパンフレットが湯沢の「市民プラザ」などにおかれているから、ご覧いただきたい。

具体的には岩崎の皆瀬川から水を取る権利を、湯沢市が高い金を出して買うことになる。湯沢と同様、もともと豊富な地下水があった鶴岡市の例では、月山ダムができたため昨年10月からそちらから給水されているが、5年間に水道料が2倍に値上げされる予定である(日経ビジネス20011210日号)。しかもダム建設の地元負担のうち、8割は水を使わなくても払わないといけないのである。

湯沢市民はこのダム計画にはあまり関係ないと思っている人が多いようだが、このようにおおいに関係ある。

しかもダムの水は濁っている。とても停滞しているし、凝集剤などの薬品もまじるといわれる。冬は冷たくて年寄りにはこたえるだろう。名水の町に住む市民が、なぜわざわざ、まずくて高い水を買わないといけないのだろうか。これも狂気の沙汰としか言いようがない。鶴岡市のように、ダムが出来てしまってから後悔しても遅い。               

  なぜダムができるのか

 国土交通省の説明では、成瀬ダムはもちろん必要とされる。まさか「不必要だが作る」とは、口が裂けても言えないからである。ではなぜ作られようとしているのか。

 わが国にはすでに2700のダムがあり、さらに400のダムが計画されている。なぜ?なぜ

 一言でいえば、「ダムを作るためのダム」なのだ。紙面の都合もあり、ここで詳しく日本政治行政の病根を説明することはできないが、ダムや河川工事、海岸整備など(道路を含め)年間50兆円といわれる公共工事、この中のかなりは不要なものである。これらは、内臓の奥深く硬直化し重病に陥っている政治と官僚機構が現出させるところの、表面上の「症状」なのである。省庁は自分らの省益を守るため、一定の予算を使わないといけない。使うためには工事を進めないといけない(国土交通省河川局などというのは、他の先進国では比較的小さな一部局でしかないのに、日本では莫大な予算を消化する、いや消化しなければならない大部局となっている。消化しなければ予算は減っていく。予算が減れば、自分らの存在価値は小さくなる)。

 一方自民党の政治家側からすれば、「地元に金を落とす」という大義名分で、この40年間、自民党と土建業界は持ちつ持たれつのきわめて強い相互依存関係にあった。選挙、献金、口利き、工事計画、そしておそらくはときには裏金なども。このような体質が、国民のためになったかというと、ミニ角栄たちの利権の場に成りはてた感が強い。無駄な公共事業で国土を荒廃させ、国(国民)に大きな借金を背負わせた責任はきわめて重い。700兆円という前代未聞の負債を背負って、国債の信用度が外国格付け会社からアフリカの一小国と等しいと判定される体たらくに陥ったのも、最大の原因はこのような政治行政の強直化と、むだな公共事業へ金の浪費のためである。

 また、中小の地方政治家・首長は、「まず先立つものは金」ということで、中央集権国家日本においては、このような病的な国策に従属するしかなかった。地方にめぼしい産業もなくなり、公共事業を頼りにしないと住民の生活が困難になる強迫観念にさらされていたからだ。

 公共事業と医療界との関係

 現在、医療界は経済的に深刻な危機感に覆われているといわれるが、これは決して誇張ではないだろう。また、マスコミに頻繁に出てくる「医療ミス」。この原因の中では、医師・看護師はじめ、病院職員のスタッフ不足から来る多大な疲労によるものも少なくないだろう。秋田県医師会が配布したパンフレット(鈴木厚氏の論文から借用したもの)のように、日本は他の先進国と比べ、病院スタッフの少なさはひどい状況にあるのだ。アメリカのようにGDP14%を医療費に出せとまでは言わないが、今の7%をせめて西欧なみの9%までにはしないと、どうにも埒があかないのである。診療報酬制度を小手先でいじくり回してやり繰りするのは、限界を超えている。最大の被害者は患者であり、国民である

 経済成長が停止している現在、予算のパイは限られている。医療にもっと金を回してもらうには、国の予算の中で無駄なものをなくして、その分を医療に回しても

らうしかない。そして、「むだな予算」はダム計画をはじめ、公共事業の中に実に莫大に存在するのだ。

 日本人は、「和をもって尊し」とすると言われる。もちろん和は尊い。しかし、医師会はいま、国民の生命と健康を守るという大義のもとに、敢然として住民や政治行政に対し正論を主張するべきである。そのためには、一部の他業種との利害の不一致は、ときには避けて通れないはずである。

 医療界や医師会をリードする方々は、そのような勇気を持つことが今必要とされているだろう。誤解を恐れてはいけないし(お前らだけ楽な暮らしをしてる、などの誤解)、また、地元の中で、ひょっとすると敵を作るぐらいの豪気がなければ、今後の日本の医療はけっしてよくならないことを肝に命じた方がよい。社会の指導者層は、きょうの拍手より、20年後、50年後の評価と名誉を重んずるべきだ。

 地方・病的な産業構造

 以上のような私の意見に対しては、「公共事業に反対するのはお前の勝手だが、じゃあ地元の産業や失業問題にどう対処するのか」、という反論を提示されるであろう。それについてはここでは論じない。しかし別の場所では論ずる用意は十分にある。

 日本人のこころのゆくえ

 山紫水明、そして美しい海辺は日本人の誇りだった。自然と共に生きる我々の心性も、そして世界に誇る日本美術も、環境の豊かさの賜物だったのである。しかし今では、海岸線の55%がコンクリートで塗り固められているか、テトラポットが占拠する状態である。川岸はどこもかしこもコンクリートだらけ、さらには、113ある主な河川のうち、ダムのないのはたった3つだけである。こんな無惨な国は日本だけだ。官僚のみならず国民も、「国土のコンクリート化」を「文明化」と勘違いしたためにこんなになってしまったのだろう。

身近な環境の荒廃は、古来から豊かな自然の中に神々を感じてきた日本人の心を、なし崩しに壊してしまうだろう。その兆しはすでに現れている。

人間はじめ生き物は、良好な環境があればこそ、はじめて体と心の健康を維持できる。医師は診療報酬など直接的問題以外にも、広く社会に目を向けた住民のための活動も行うべきだ。

まとめ

 1 成瀬ダムは、存在しなくてもまったく誰も困らない(地元の住民が要ると言うなら、銭のために魂を売り渡すな、と私は言いたい)。ダムは不要どころか、美しい郷土の山・川・森を破壊するだけの実に野蛮な行為である。

 2 成瀬ダムができれば、湯沢市の上水道の大部分は、そちらから来ることになっている。そして確実に水道料は跳ね上がり、水質も落ちるであろう。名水の里に住む湯沢市民が、なぜそんな愚かな計画に巻き込まれなければならないのだろうか。

 3 公共事業による山・川・海のコンクリート化は、世界で最も美しい国の一つであった日本を、世界で最も醜悪な国にした。できるだけ多くの国民が、今からでもこの蛮行を軌道修正させ、美しい日本を取り戻さなければならない。これは私たちの子孫への大きな責務である。

 4 日本の医療制度は世界一だったかもしれないが、医療の内情は世界一からは程遠い。主な理由は、経済的問題をはじめとする諸原因により、病院の各スタッフの数が不十分であるからだ。また昨今、医療機関が経済的に限界に近いところまできているが、そのわけは国が十分な金を医療に出してないからである。公共事業に圧倒的にむだ金を費やしてきたツケの負担が、いま医療機関とその職員、そして病者の命に対し重くのしかかっている。私たち医師は、こういう経済構造と国の政治悪を認識し直視して、党派性を超えて怒りを表出するべきである。

  以上のように、あらゆる面からみて、身近な問題としての成瀬ダムの建設は「狂気の沙汰」である。ぜひ医師の中の一人でも多くの方々が正気の中で、積極的に、あるいは積極的な支援は無理な方は心情的な支援であっても、建設を阻止するような言動、行動に向かっていただきたい。私自身、もっと早くから反対の行動をすればよかったと、後悔している、しかし今ならどうにか遅くはない。

地域住民のできるだけ多くが強く反対しない限り、ダムはできてしまうのである。