私の趣味・好きなこと-----
        年代別に顧みて
 
                                 (平成25年作成


 仕事一筋で、趣味はない、そういう人に私は敬意をもちます。私も50歳ぐらいまでは、それに近い人間だったかもしれません。しかし、この十年ぐらいは、多少の趣味といえるものをもつようになったかと思います。。以下に記しましたとおり、スポーツやゲームも好き、でも静かに本を読んだり、音楽を聴くのも好きです。基本的には人の中にいるより、自分で勝手気ままにしている方が好きです。
 「趣味」といえるほど、得意になる芸や知識はもっていませんので、「好きなもの」という意味で、ここにまとめておきたいと思います。学校の勉強のことも書きましたが、まあ「好きなもの」、ということであしからず。また「趣味」といったところで、たいしたものではなくて、笑われる程度のものですが-------
 なお、10歳ぐらいから今まで、私の四季の生活はずっと同じようなものです。すなわち、4月から10月までは徹底的にスポーツをする、そして、11月から3月までは、徹底的に室内にしかいない、そういうことです。ウインタースポーツをしないことが、そういう生活様式になった理由だと思います。(当地ではウィンタースポーツといえば、スキーであるが、なぜ自分がスキーをしないかといえば、小中高の頃の、家庭の事情(経済的困難)とそれに付随する、心の傷に関係あることなので、ここでは省略します。)

小学校高学年時代
  やはり野球でしたね。、ソフトボールや、軟式のボールや、ゴムボールなどいろいろでした。3角ベースが日常の形式で、さらに、学級対抗や町内対抗などいっぱい草野球をしました。ポジションはまあ、サードかピッチャーでした(エへへ)。6年生の時に、列強の町内チームを撃破して、2位になったことがいい思い出です。わが金池チームは、6年生が僕以外に1人だけ、あとは、5年と4年でした。僕は投手で4番の大黒柱、コントロールの良さと、独力で覚えたカーブを駆使して、勝ち続けました。ただし、決勝では、カーブを投げすぎたために、右肘を痛め、無念の途中降板したのが悔やまれます。(ただし、このとき無理をしなかったのが、後々37歳まで、野球を楽しめたことにつながり、幸いしたと思っています。)
 野球以外では、図書館から本を借りて読んだのがいい思い出です。3日に1冊ぐらいのペースだったかな。(別の文章にも書いているのですが-----。)3年間でたぶん200冊近く読んだかなあ。あの髪の匂い、いや、紙の匂いが忘れられません。シャーロックホームズシリーズ、シートン動物記シリーズ、童話昔話、あるいは科学の図鑑的なもの、などが記憶に残っています。
 なお、家で学校の勉強をすることは、まずなかったはずですが、成績はよかったかもしれません。6年の時、ちょっとむずかしい幾何の問題で、先生が黒板を前にして解けなかったやつを、私が解いてやったのが、自慢の思い出です(いやらしい!)
   
 
中学時代

 中学時代は、98%野球に明け暮れていました。湯沢中学は、私の上の学年が2年連続、県大会で2位でした。(私の人生、2位が多いです。) しかし、俺らが3年になったとき、学校統合で、湯沢中は真っ二つに分解され、郡市大会は、つい3カ月前まで、同じチームメートだった彼らと、決勝戦を戦うことになりました。私は、3年生になってから、急に野球が不振になりまして、今思い出しても、強い悔いが残ります。県大会には出ましたが、1回戦で、負けました(その相手は優勝しました。) 自分はキャプテンだったが、ヘマを何回もやりました。苦しかった。内気な私をなぜ先生は主将にしたのでしょうか。
 野球以外には何をしたかよく覚えていません。本は全く読みませんでした、いえ、活字を読んでも、なぜか頭の中に入ってこなくなったのです。もしかしたら、背伸びして、むずかしい本だけを(哲学など)、手に取ったせいかもしれませんね。
 映画をよく見たことが、いい思い出かな(これは高校時代も同じです)。吉永小百合の映画は、よく見ました。「伊豆の踊り子」や「潮騒」----,そういう映画を見た後の一週間ぐらいは、熱病にうなされていました。「遅れてきたサユリスト」、だったんです。
 なお、身長が高かったためか、早熟の方で、詳しいことは書けませんが、中一のとき、「かわら版エロ新報」を自分で発行し同級生にみせたりしましたが、、4歳上の兄貴にみつかり嘲笑されたこともありましたっけ。



高校時代
 高校時代は、1年、2年、3年と全く違うことをやっていました。
 1年時は、酒と野球の日々。中学の野球が終わったときから、もう一生野球なんかするものか、と心に決めていたのですが、高校に入学して、4日目にはもう、野球のユニホームを着てしまいました。自分から野球をとったら、もう何も残っていなかったのです。
 しかし-------、野球は楽しかったのですが(バッティングピッチャーとキャッチャーと外野ををやっていた。かなり上達した。ずっとやっていれば正捕手だったろう)、時々ある「しごき」がいやだった。(先輩たちが悪いわけではないです。その時代ではふつうのことだった。「通過儀礼」みたいな、人類学的な意味もきっとあるにはあったのだろう。)
でも、それを機会に、私の暴力大嫌い精神は定着したのです(だから戦争も強く憎む)。
 野球の合間には、夜にしょっちゅう友人・野球仲間の大友清一君の家の2階に行って、H君と三人で、サントリーレッドを一晩に1本あけるような生活が続いていきました。二人ともとてもいいやつでした。勉強はほとんどしませんでしたので、成績はどんどん落ちていきました。(なお、美男子で女生徒にモテモテだった大友君は、高校卒業の直前に交通事故で亡くなりました。生きていれば、きっと今も親友だったにちがいないのに。死後、彼は何十回となく私の夢枕に現れました。H君も、事情で高校を中退しました。)
 二日酔いの期末テスト、湯沢高校成績順位はxx番ぐらいで、昭和42年も暮れにけり。

 高校2年の6月に野球部をやめました。これではどうにもならないし、プロ野球をめざすほどの体力精神力もない、と悟ったのです。その後1年間は猛勉強して、どうにか形になってきました。(年末の全国模擬テストでは、校内で一番になりました。エへへ。)
 その頃、湯沢高校で国立大の医学部に入る人はほとんどいなかったのですが、私はそれをめざしました。家の経済力には限界があったので、現役か一浪での入学をめざして。もしは入れなければ、理学部の化学科か、農学部で分子生物学の研究者になりたい、そう思っていました。
 一般に、高校時にどの科目が好きになるかは、教師に左右されるかと思います。化学は佐藤先生が非常に分かりやすく教えてくれて、テストでもほぼ100点でした。生物はそんなにできるわけでもなかったが、DNAの二重らせん構造と、それに関連する生命体のセントラルドグマが解明されて10年余り、教科書や授業により、生物学の明るい未来が理解できました。医学部をめざしたのも、患者さんを診療することよりは、分子生物学を究めたいという動機が強かったかと思います。
 なお、物理学はダメでした。先生がどうだったかは、わかりません。いまも、物理学のセンスを自分は持ち合わせていない、と思っています。数学は1年生のときの遅れを取り戻すのにたいへん苦労しました。後々30歳ぐらいまで、数学で苦しんでいる悪夢を数え切れないほど見ました。二年生以降の分野はまあまあで、「三角関数」と「二次関数とグラフ」、「微分・積分」は得意でした。まあ、高校レベルのこれらの分野を解く力は、暗記力が主であって、数学的センスは必要ないわけです。難問を解くセンスや実力はありませんでした。
 社会は、「世界史」が好き、「日本史」は興味なし、という感じでした。先生の影響はあったかもしれませんが、その頃は、自国よりも、欧米の方に圧倒的に興味があったからでしょう。それは今も続いています。また、日本史はなんか細かすぎる感じがして------
 それにしても、歴史の受験問題は、昔も今も細かすぎると思う(固有名詞の暗記などです)。歴史の専門家になるわけではないのだから、もっと別種の問題を作れないものなのか。「歴史上の事件の後世への意味」を問う問題とか。
 実は、大学受験の科目の中で最も得意だったのは英語でした。今も英語は全く話せませんが、英語だけは、ずっと学年で一番だったかと思います。中学三年間の英語の教師の戒田先生は、非常に熱心な先生であり、英語の発音も正しく、また英語の授業の目的の一つは、語学を通じて外国文化を知ることにある、ということを十分に意識された上での授業だったのです。それで私も英語を好きになったのです。なお、戒田先生は熱心な日教組の一員で、校長からとても冷遇されていました(それを知り感ずることができたのは、クラスの中で私だけだったと思っています)。彼の父は帝国陸軍の将校(大尉)だったはずですが、敗戦後は世の中から身を引きました。戒田先生の反戦精神は、父親の人生と関連あるものと推測されます。
 ついでながら、私の政治信条、すなわち、リベラリズム、やや左で、弱者貧困者への共感は、戒田先生からの影響ではなく、自分の境遇からのものと考えています。
 私は何人かの先生や先輩に恩恵を受け、彼らにとても感謝している。しかし、この世や社会についての考え方は、親を含め誰からの影響も決定的な作用は及ぼされなかったと考えています。私は、自分が生きて感じたことと、自分が得た知識をもって、今の人生観、社会観、政治信条を持つにいたったと考えています(傲慢でしょうか)。

 模擬テストで校内トップを得て油断したせいか、高3は、また勉強をあまりしなくなりました。(秋田県人は一般に志が低く、小に満足してしまう傾向があります。)、母が5月に大病をして3カ月ぐらい入院したたせいか、私の日課は家事が主になりました。(父は建設関係の仕事で、大阪や神奈川などで仕事していた。) 弟と二人暮らしで、朝と晩の食事の支度をしていました。昔はコンビニもなかったし、何を作ったのかなあ。肉野菜炒めみたいなもんでしょうね。
 家事の間には、小説をよく読むようになりました。太宰治は全部読んだ。いえ、「人間失格」などにはさして感動しませんでした。最も感動したのは「津軽」、めちゃくちゃ楽しく読んだのは、「カチカチ山」などの「御伽草子」です。つまり、戦時中の太宰の作品で、彼が最も健康的な時期のものです。他には、芥川龍之介など昔の人たちのものです。(田舎者で、大江健三郎や安部公房は大学入学後に読んだ。)
 あとは映画。もっとも感動したのは、「Bonnie and Clide」 日本名は、「俺たちに明日はない」、「卒業」、「男と女」など、そして何度もNHKで放映されたが「エデンの東」でした。「卒業」は今思うと、高校生向きの映画ではなかったが、画像と音楽に魅せられたんでしょう。「男と女」もしかり。
 それから、山内や原田といった酒好きな悪友ができ、高校生のくせに湯沢の飲み屋で日本酒を飲んでいました。これでは、医学部なんかに入れるわけはなく、新潟、弘前ともみごと不合格。昭和45年の冬も終わり、4月から仙台の予備校に行きました。
 4月は全く勉強せず、映画を見たり(「明日に向かって撃て」!、「イージーライダー」!)、あるいは仙台の街をほっつき歩いていました。しかし、無心に帰ったのが幸いしたのか、あるいは、数学で差がつかない文科系得意が有利の受験問題が幸いしたのか、5月の連休に急遽行われた新設の秋田大医学部の入試に首尾よく合格しました。実質競争率20倍、合格には自分でも驚き、何かの間違いではないかとさえ想像したものです。


 大学前半
 医学部は6年間の学生生活でしたが、前半と後半では、まるで違う生活でした。
 前半はわが人生の「暗黒時代」。授業にはあまり出ませんでした(そういう同級生はいっぱいいた。そういう時代だった。キャンパスでは、学生運動の残り火がまだ燃えていたが、私は参加しなかった)。
 授業に出ない理由。一つは、授業が全く面白くないのが多かったこと。「一般教養」のなかの、「文学」や「社会学」その他、全く陳腐でした。それなら同じ分野でも、本を買って独学した方がよほど効率も良く、学問にもなる。ふたつめ。医学課程の授業も私にとっては期待外れの内容だった。それは、教官が悪いのではないと今ならわかる。医学知識の基礎というのは、解剖学その他、暗記の作業である。それをきちんと自分では認識していなかったし、教官もあらかじめ教えてくれなかったと思う。3つめ。パチンコ、麻雀にけっこうのめりこんだ。(私、のめりこむたちなんです。パチンコの夢は、まだときおりみます。その夢は、バンバン玉が出るようなものではなく、なぜか薄暗いパチンコ店の中を1人で彷徨しているものです。この夢の意味はいまだ分析できていません。しかし、1年半ほど、のめりこんだ後は、全く興味がなくなり、その後全くパチンコ店に入ったことはありません。なお、パチンコ・麻雀のときを共に過ごすことが多かった、高校同級生で鉱山学部のF君と、おととし35年ぶりぐらいで会い、夜遅くまで酒を飲みましたが、彼もその後は全くパチンコ屋に入ったことはないとのことでした。))
 4つめ。その時期、医学や科学に全く興味がなくなり、文学と哲学に多大なエネルギーを費やしたこと。上に書いた安部、大江のほか、三島由紀夫、夏目漱石、森有正、加藤周一、小林秀雄あたりはほぼ全部読み、また外国ではドストエフスキー、カフカ、カミュ、そして、サルトル(半分しか理解できず)、パスカル、デカルトなどでしょうか。現実離れした生活をしているのですから、ノイローゼ気味になるのは当然だったでしょう。
 五つめ。秋田県の中にいて、秋田の言葉を使うと変な顔をされること。元々性格が暗くて内気なので、もう、話をしたくなくなりました。でも、秋田弁を使えないのは、しょうがなかったのです。同級生86人中、秋田県出身は6人だけで、東京周辺が20人ぐらい、九州出身も10人ぐらいいましたから、いきおい、標準語で話さなければいけなかったんです。標準語を話していれば、すぐ慣れてなんともなくなるのでしょうが、私はすぐには順応できなかった。特に、会話がスムーズになるはずの、語尾の、「ね」、「さ」を使う気になれなかった。(その後、「これはさ-----」、とか、「ぼくはね-----」、などとふつうに言えるようになりましたが、それを今ここ湯沢の人の前で使うと、露骨に嫌な顔をされます。) だから、19歳の私の意固地な感情は仕方なかったと思います。
 このようないくつもの原因・理由が絡んだ糸のように縺れ(もつれ)あって、私はクラスの中で変人になっていきました。(もし家に経済力があったなら、たぶん医学部を退学していたと思います。)
 夏休み、冬休みは、もっぱら本を読み、あるいは音楽を聞いていました(貧乏人だったので、ベートーベンとモーツアルトの主だったのしか、その頃は聴いていません。あるいはビートルズぐらい。)

 
 転機が訪れたのは、3年時の夏頃だったか。その頃ときどきしてたように、昼日中、独りで公園かグランドに座っていて高い木をぼんやり眺めていたときでした。生命の力にあふれた緑の葉の間から、キラキラと木漏れ日が眩しい。それにしても、小説や哲学を勉強しても、俺には何の役にもたたなかった。何のために俺は生きているのか全くわからない。バカみたいな2年間だった。せっかく医学部に入ったんだ、ちゃんと勉強したらどうなんだ。医者になって人のために身を粉にして働く、そういう人生の方がお前にはあってるはずだ。まだ決して遅くはない、もう一度やり直した方がいいんじゃないか?  A.ランボーが19歳で詩を投げうって、砂漠やアフリカで商人をやったように、お前も現実にのめりこむ方がいいのではないか。
 それまでなんとなく思っていたことが、その日急に意識上に現れただけかもしれませんが、自分は変っていかなければならない、そんな気がしました。そのとき私は、「地獄の季節」にアデューと言えたのです(テヘへ)。
 (ついでに書けば、ランボーに親しんだのは、小林秀雄の文章を読んでからで、フランス語も少しは勉強したが、私にとって無意味ではなかったと思っています。たとえば、マーラーの「9番」はランボーの「地獄の一季節」に相当し、「10番」は「イリュミナシオン」に相当する、という私なりの評価は、我ながら気にいっている発見ですが、これだけのことでも「地獄」の住人だった意味があろうと思っています。)

 大学後期

 その頃だったでしょうか(あるいは、1年後の4年生のときだったか)。新設の秋田大医学部にもスポーツクラブを結成する動きが出てきました。東日本医学部体育大会(東医体と略す)に出場するためです。6月半ばだったでしょうか。誰がどこから聞いてきたのか、「キューちゃん、高校で野球やってたんだって? 野球部(準硬式)を作るからやってみないか?」と言われたのです。(キューちゃんというのは、大学時代からの私への呼称です。愛称的な呼び名だったのでしょうが、自分からすれば、ちょっと変人ぽい蔑称のニュアンスが含まれているように感じていました。小中高と私は「ヤマ」と呼ばれていました。名前と背が大きいことのかけ言葉で、自分ではそちらの方を気にいってました。しかし大学で「ヤマ」と読んでくれる人は誰もいません。成績優秀なもう一人の山本君もいましたし、山下や山田という名物男も、いましたから。
 一晩考え、入ることにしました。野球の球はかれこれもう4年ぐらい握っていない、自分はやれるのだろうか。しかも大会にはあと1か月しかないというではないか。
 K主将が一生懸命に部員を集めたにもかかわらず、私が何度数えても9人しかいませんでした。しかも、多浪のツワモノぞろい。ピッチャーのSさんは6浪、ファーストのTさんは5浪、レフトのNさんは4浪です(後日、多浪の人はみな、とても人柄がいいことに気づきました。私みたいにあくせくいつも何かに向かって走るような人間とは違います)。キャッチャーをやる人がいないということで、私がやることになりました。なにしろ9人ぎりぎりなので、あまり一生懸命走ったりしません。
 あれやこれやで、7月下旬まずは伊勢原市で行われた東医体に出かけました。試合前の練習も、けがをすれば即棄権となるので、軽いキャッチボールだけです。相手チームの実力も全然知りません。トーナメント形式で1度負けたらそれで終わりです。
 ところが、S大学、T大学、H大学と伝統校に3連勝してしまったのです。東医体という大会のを、ただ様子見で行っただけなのに。 ただ残念ながら決勝では新潟大学に完敗してしまいましたが------.
 勝因は後で考えると、まずチームワークがよかったこと。いつも冗談を言って、仲が良かった。第2は、欲がなかったこと。メンバーみな、あまり勝つつもりはなかったのです。それから投手のSさんがすばらしい投球をしたこと。コントロール抜群なのです。6浪して大学に入り、その後も野球はしていなかったはずなのに、どこでそんな体力、技術を温存していたのか、今もって不思議です。キャプテンのK氏のリーダーシップとマネージメントも良かったと思います。最後に、私こと、キャッチャーの守備も良かったこともあったと思います。一回戦のS大学との試合で、盗塁を刺した。それは運がよかっただけなのですが、その後は誰もどのチームも盗塁を試みませんでした。誰にも言いませんでしたが、私には秘策があったのです。そう、投手に球を返すとき、表情は穏やかにし、しかし、全力で速い球で返すこと。これはかなりの効果があったはずです。なお、実際の試合でキャッチャーをやるのは草野球も含め生涯で初めてだったこともあり、球種などの「サイン」は全部、投手のSさんに任せていました。彼もそれの方が投げやすかったと思います。
 ちなみに、翌年の東医体でも3位になり、前年の準優勝はけっしてまぐれではなかったことが証明されたました。(打順はずっと5番でした)。
 (ついでに書けば、私が医者になったその年は、後輩たちはすばらしいことに東医体で優勝した。)

このように、自分の内側からの心境の変化と、野球の再開によって、4年生のはじめ頃私はやっと現実的な生活を取り戻しました。今やるべきこと、それはなるべく授業に出ること、および家の中にいるときもなるべく医学の勉強をすることでした。
 しかし、授業には出たものの、やはり面白くないものが多い(いくら内容が専門的とはいっても、学生に興味をもたせるような講義をするのが教師の義務ではないでしょうか。) その中で内科学と外科学の授業は聴きがいがあると思いました。とくに血液学の柴田教授、循環器学の金沢教授の授業は素晴らしかったと思います。また、外科学の前多、阿保の両教授と、阿部助教授、などの諸先生の授業は一生懸命聞いていました。(もともと、自分にとって臨床医学の中では、ほとんど内科と外科にしか興味がなかったせいかもしれません。ほかに精神科は関心があったが、自分が再び地獄に落ちそうで怖かった。中学の同級生は、私が婦人科に行くと予想していたが全然そういう気はなかった-----女が好きと、婦人科が好きとは、ちょっと、いえだいぶ意味が違いますよね。耳鼻科や眼科の細かそうな仕事は自分には不向きであることが初めからわかっていた。小児科は、子供の難病を診ていく勇気がなかった。その他---------) 
 家(下宿)にいるときも、よく勉強しました。一番熟読したのは、ハリソン内科学書の原書です(その頃は今と違って、翻訳はなかったな)。黄色い表紙で、枕にも使っていたせいか、6年の頃にはボロボロになっていました。中も下線の赤ペンだらけになりました。その本では、どの病気、どの病態の、どの説明が、どのページの、どのあたりに書かれているか、頭の中におのずから入ってしまいした。
 この独学により、その後、英語の教科書や論文はほとんど苦もなく読めるようになったのは、予期せぬ果実でした。


努力の甲斐あって、医師国家試験については、半年前の時点でほぼ不安がなくなりました(一期生で先輩もなく、国家試験がどういうものかよく知りませんでしたが気になりませんでした)。その頃、国家試験は5月に行われていたと思いますが、4月初めには、九州は佐世保に実家がある、同級生のS君の家に4,5日泊まり込んで、西海橋や彼の生まれた大島など周囲の名所を観光旅行していました。後で知ったのですが、試験前の大切な時期に遠くに旅行するとは、かなり奇妙な行動だったようで、同級生の間では「キューちゃんは今回の国家試験は、あきらめているようだ」、という噂が流れていたようです。(ちなみに、佐世保が実家のそのS君は、事情により今回の国家試験は受けないことになっていました。そういえば彼の家で、ご両親は私になぜか冷淡な気がしましたが、自分の息子はそのとき少し順調でなかったわけですから、親から私が「悪友」とみなされてもしょうがなかった面がある状況だったのですね(実際は本当に冷たかったかどうかは不明)。そういう他人の心理に私は鈍感なのです。ただし、自分ではそういうことを欠点と思っていません。他人が自分にマイナスのイメージをもつ、そんなことには、鈍感でいいのではないでしょうか。-----実際、私が九州旅行したのは、S君に誘われたからでもありますが、彼に寄り添って、彼の不調-----私にはそうみえた-----それを少しでも共感することができたなら、という身勝手な気持ちもあったわけですが------。) 
 
その後、6年間は大学の心臓外科の医局にいて、大変な毎日を過ごしましたが、この文章は、そもそも「趣味や好きなこと」を書くものなので、この期間のことは空白にします。
 もちろん楽しいことがなかったわけではありません。先輩の贄田先生や同僚の高野君、後輩の星野君その他の方々と、酒を飲んで話をしたことは(ときには3時、4時まで!)、わが半生の中で、最も楽しかった時間、といえるでしょう。
 なお、医局時代は野球も時々やっていていました。夏に「医局対抗」があったのです。私はエースで監督で5番でした(そう、私はやっとここでピッチャーになれたのです)。1度か2度優勝したかもしれません。詳しいことは忘れました。
 ただし優勝の翌年の大会では、熱中症になって大学病院に運ばれるという失態をしてしまったことを覚えています。7月31日のすごく暑い日でした。私は前夜から興奮して、あまりよく眠れませんでした(大学病院のナースも応援に来るので、そこで活躍すれば一躍、ヒーローになれるのです)。私はピッチャーをやったはずですが、不調でした。一回戦で負けてしまいました。そのころはまだ、スポードリンクはありませんでした。O製薬がオロナミンCをいっぱい差し入れでおいていきました。試合中なにしろのどが渇き、私はたぶんオロナミンCを30本ぐらい飲んでしまったかもしれません。試合直後から、強い吐き気と倦怠感でたっていられなくなり、醜態を演じたのでした。だからといって、私はO製薬は恨んでいるわけはありません。私がバカなだけなんですから。

 雄勝中央病院時代

 31歳から37歳までのその6年間も、非常に仕事が忙しかったです。循環器、呼吸器、、脳梗塞、各種感染症を夜昼問わず診療していたので、夜に熟睡したことは少なかった(毎夜、電話が来たり、救急患者を診にいったりしてたいへんでしたが、この文章では仕事のことは省略します。)
 趣味といえるほどのことはもってなかったと思います。こたつに寝ころんで、子供を腹の上に乗せながら本はよく読んでいたような気がします。記憶に残っている本は、まず、中公文庫の「世界の歴史」シリーズ全16巻、これはとても面白かった。けっこう細かいエピソードも書かれていて、「人間模様」的な中身もあります。(後年、50歳前後?に、ロバーツの「世界の歴史」シリーズ、日本版全10巻も読んだが、これも違った意味で読みがいがあった。ロバーツのものは、「西欧中心史観」と批判する人もいるようだが、彼は、「世界がひとつ」になった現代に至るまでの長い時間の中で、どの文明がどう重点的に影響してきたかという視点を基本としているので、ある程度西欧中心的になるのは、仕方がないと私は思います。まあ、もっと中国・イスラムのことを詳しくという意見も、分からなくもないですが。)
 なお、ロバーツの原書、「History of the world」を日本版を読む前に、辞書を引き引き所々読んでいましたが、英語で読んだ方がなぜか文章の中身が濃く、読む楽しみが大きい、と感じたのは不思議なことでした。英語で読んだ方がよい、という感覚は、後年、B.ラッセルの「西洋哲学史」を読んだときも同じでした。日本語と英語とでは、読む速度が歩行と自動車との違いだけ、あるいはもっとあるわけですが-----。ゆっくり歩くと、周りの景色もよく見えるように、ゆっくり読むことは、熟読につながるかもしれませんね。まあ、西洋哲学は、もともと英語で読んだ方が、おおいに理解しやすい、と加藤周一も「読書術」に書いてたはずですし、語学力において加藤周一と天と地ほどの差がある私も、生意気ながらそう思いました。
 他に印象に残っているのは丸谷才一の「笹まくら」や「たった一人の反乱」ぐらいです。心身とも疲弊してきていたので、仕事以外のエネルギーは残ってなかったのでしょう。
 スポーツは、たまにやる野球と、月二回ぐらいのゴルフでした。下手でした(いまも下手です)。


 
40歳代
 37歳で開業し、数年間は、医者の仕事と、医院の経営のことで頭がいっぱいで、他のことをやる余裕は全くありませんでした。いくつかの見込み違いの事項もあり、数年間経理を担当してもらったYさんにも、たいへん申し訳なかったと思っています。(他のこともありますが、ここでは省略)。とくに開業して1年ぐらいは、酒を飲まないと疲れがとれないような気がして、毎晩日本酒換算で6,7合のアルコールを飲んでいました。
 しかし、2、3年すぎた頃からは、運動を再開、といっても夕方にほぼ毎日ジョギングするだけでした。(これは2,3年前まで、約20年間続けていました)。4,5kmだけのジョギングでしたが、そよ風を切ってマイペースで走るのはとても爽快でした。入院患者をもっていて、年中、家から離れられない田舎のしがない医者でしたが、初夏の夕暮れに家のわきで、愛犬を横に座らせて、走った後にググット飲むビールは格別でした。
 さらに医院に弟が来てくれた頃から少し余裕が出来てきて、それから数年間は時々山に登っていました。星野君に鳥海山に連れて行ってもらったのがきっかけでした。
 たぶん45歳頃のことでしょうか。7月下旬快晴の日、私は鳥海山に独りで登っていました。その頃は何かと面白くないことも多く、また「middle age crisis」の名残もあったころで、ふがいない日々を過ごしていたような気がします。象潟口から登って、1時間半ぐらい経過したあたりでしょうか、(場所の名前は忘れましたが)、急な上り坂が一段落して、ゆっくり右に曲って、斜め右上を見たときのことでした。すぐ近くの山肌に、背丈50cmぐらいの黄色い花が数え切れないほど咲き乱れているではありませんか。私は無粋な人間で、花を愛でる習慣は全くありませんが、その日その光景に出会ったときは、心の底から感動しました(このときだけは、自分が文章も絵の能力もなく、この風景、この心情を描けないことを呪いました)。
 その花の名は、以前星野君から教えてもらったことがある、ニッコウキスゲでした。
 
 そういえば、趣味というわけではありませんが、40代半ばには、ユング派心理学者の河合隼雄の本をよく読んでいました(出版されたほとんどを読みました)。そのすべてが勉強になり共感しましたが、最も印象深かったのは、最初に読んだ、「中年クライシス」という本でした。いろんな小説の内容を通して、中年の意味を深く考察したり、読者に教えてくれる本でした。なかでも第2章の「異人たちとの夏」を題材とした文章---これは山田太一の小説で、映画にもなったそうです----、これには、とくに感動しました。
 「中年クライシス」は、はじめ月刊誌に連載されたものですが、私は偶然にめったに買うことのないその月刊誌を駅の売店でなぜか買い、何も知らずにかつ、その頃は河合隼雄がいかなる人かも知らずに、その文章を読んだのでした。後年、ユングや河合さんは、「意味のある偶然」、とういことを幾度となく書いていることを知りましたが、私がその月刊誌を買ったことは、まさしくその「意味のある偶然」であったと思っています。
 なおその後しばらくしてから、山田太一のその小説を文庫本でよみましたが、河合氏の文章に劣らず、心を動かされました。「中年男の孤独」、こんなことを書くと私の姿を知っている人からは、バカ笑いされるはずですが、感動したのは嘘でないので----。その主人公のおかれた状況は私とはだいぶ違うし、まだ両親とも生きていたわけですが、たぶん今読んでも、涙なしには本を閉じることはできないと思います。
 総じて、自分で思うに、河合氏の本との出会いがなければ、後の人生はかなり変わっていた可能性が強いと思っています。青年期に一度私は生まれ直した気がしましたが、40代半ばにおいてはじめて私は、人間が生きていくということは、どういうことなのか、あるいは、どういう意味をもつのかを、少しですが理解したような気がします。
 山田太一の本はその後何冊も読み、やはり感動しました。「丘の上の向日葵」、「飛ぶ夢をしばらくみない」、など題名そのものも、とてもいいです。それ以降、山田氏のTVドラマは欠かさず見ましたが、みな素晴らしかった。題名は忘れましたが、渡部謙が、間違って殺人犯にされるドラマのすばらしかったこと! ただし、山田氏の代表作とされる、「岸辺のアルバム」はみていません。大学病院時代の放映で、その頃はTVドラマをみる習慣もなかったし、山田太一という名前も知りませんでしたから。

50歳代
 48歳頃からけっこうのめりこみ、今も続いているのが、囲碁とゴルフです(ああ、おじんっぽい趣味ですね)。
 もともとスポーツとゲームが好きだということもありますが、私にはいろいろ限界があり、これぐらいをやるしかなかったということもあります。趣味が旅行や釣り、といえる人はうらやましいです。私は休日でも、1時間ですぐ帰って来れるところにいなければなりませんので、そういう高級な趣味はもてません。。
  囲碁は中学の時ルールだけは知り、自分としてはとても面白そうなゲームだなと感じたのですが、残念ながら身近に教えてくれる人はいませんでした。大学では、私の歳より3つぐらい上の年代以上では、碁を打つ人は少なからずいたはずですが、私の年代(1951年生)ではまず誰も打ちません。もちろん学生のときは、自分の興味は、上記のように興味は別にあったので------
 ちゃんと覚えたのは、医者になって3年ぐらいしてからで、外科の医局には碁盤があり、時々先輩連中が打っていました。私は、2,3冊の本と「日本棋院初級コース」の通信教育を受け、1年後には3級ぐらいになりました。昭和57年に山本組合病院に9か月間いたときは、少し囲碁の勉強をして、先輩の高橋先生とたまに打ったり、月に一度M先生に打ってもらったりで、湯沢に来るときは2段の免状をもらいました(初段も2段もあまり意味はないのですが)。
 その後、雄勝中央病院時代にも、たまに碁を打ちましたが、勉強はしませんでしたから、全く上達しませんでした。
 48歳頃から、インターネットで碁が打てることがわかり、しかも、いつでも相手がいることもあり、仕事の後や、夕食後に、しょっちゅうやるようになりました。しかし、最初の2,3年で1子ぐらい強くなっただけで、その後は強くなりませんでした。ちゃんと碁の勉強をしないで、「戯れ」か、「酔狂」でやっていたためでしょう。とはいえ、湯沢の囲碁大会で、Aクラスにはいれたことで、自分としての碁の趣味は、一応の目標には達したと思っています。また、3,4年前、日本棋院発行の囲碁雑誌の正月号の、「棋力診断」で、どうにか4段(5段だっけ?)の点数を獲得したことがあります。(ただし、免状料金が高くて、申請はしませんでした。そのころがピークで、今は下降カーブを描いています。なぜか、体の中から真剣味が出でこないのです。)
 囲碁(ヘボ碁)を趣味としたばかりに、本来好きな読書はあまりしなくなりました。ときに後悔しないわけではありませんが、楽しんだことでもあり、また気の慰めになったことでもあり、これでよかったと思っています。

 ゴルフも48歳頃から再開しました(開業して10年ぐらいはほとんどやりませんでした)。その頃から、ケータイをもつようになり、ゴルフが可能になったのです。(その前のポケットベル時代は、とてもやる気にはなりませんでした。ゴルフのプレイ中にポケットベルが鳴ったところで、私はどういう行動がとれたでしょうか!)
 48歳というのは、下の子供が高校を卒業して、家にいなくなったときです。卒業するまでは、碁やゴルフなど、あまり遊ぶ姿を見せるのは、控えめにしていたということもあったかもしれません。
 ゴルフはけっこう練習もしましたが、結局、たいした腕前にはなりませんでした。練習場に行くと、どうしてもドライバーをもって、思い切り振る練習をしたくなる。しかしそれはスコアには簡単には結びつかないのですね。アイアンやアプローチの練習の方がずっと意味がある。でも自分としては、練習が運動やストレス解消の意味も大きかったので、仕方なかったと思っています。
 今までのベストスコアは81、去年の平均スコアは93ぐらい、ベストスコアは83でした。冬に全く運動しないものですから、エンジンがかかるのがいつも6月半ばあたりなんですね。そして、9月以降はまた不調になる、この繰り返しでした。もうしばらくは続けたいですが、上達はしないと思います。


 まとめ

 仕事以外に自分が好きでやってきたことを書きましたが、我ながら、その時々に気ままに生きていたと思います。
元々私は命令されるのがとても嫌い。命令されると、わざと逆のことをしたくなります。(こういう性格の人間が患者なら、医者にとってはとても嫌な奴なんでしょうね。)
 中学高校の頃も、期末テストになると、テスト用の勉強するのがとても嫌だった(そういう人はよくいます)。医者になった理由のひとつも、高校時すでに自分は組織の中で素直に生きていくタイプでないということがわかっていたからでした。医者は、ある程度「自由業」にみえたのです(実際、開業医は自由業的な側面があるかもしれません)。
 自分勝手に生きたいから、結局趣味も自分ひとりでやれるものが多い。私の中では野球だけが例外で、ゴルフやマージャンも仲間を必要としますが、本来は個人プレイ的な遊びでしょう。
 なお、一言弁解をいたしますと、私は自由に生きてきたといっても、仕事をおろそかにしたことはありませんし(今でも、深夜に診察依頼があれば、診ます。もともと当院にかかっている人に限りますけどね)。また、人間は社会の中で生きていく、ということも忘れたことはありません。地域活動みたいなものはやっていませんが(その理由は、この稿の趣旨からはずれるので省略。)、私は日本の現状と、将来がとても心配です。個人でできることはあまりありませんが、自分は仕事も含め、自分のためというよりは、他の人たちのために生きるべきだ、とくに歳をとってからはそうであるべきだ、と考えます。
 若いとき読んだJ.P.サルトルの、重要なキーワード、「アンガージュマン」、社会参加が大切であるみたいな思想は、自分の中では昔も今も同じです。実際にはたいしたことはやっていませんが、自分の知識や人生経験が、他の人に役立つように生きる、それが最終目標です。
 勝手気ままに生きてきた私がそういっても、あまり信じてもらえないかもしれませんが、本当にそうなんです。宮沢賢治の「アメニモマケズ」のような生き方を----、けっして目立たず、けっして威張らず、そういう姿勢で他人のために生きる、それが目標と思っています。