H.28年8月21日、むのたけじ氏は101歳の生涯を閉じた。むの氏の人生について、私は強い共感と敬意を感ずる。
昭和20年8月15日のその日、時代に流されるまま若い新聞記者として戦争に協力してしまった自分の過去を悔い、そして「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切った」けじめをつけるために、朝日新聞社を辞めた。その場では、「読者を裏切り続けたことのけじめをつけないと、同じ過ちを繰り返すことになる」、とも言ったとのことである。氏の純粋性と潔さに、私は深く頭を下げる。(言うまでもないが、むの氏も含め、昭和10年代はすべてのマスメディアが戦争協力にいそしんでいた。)
もちろん、後年むの氏自身が語ったように、そのまま組織の中にいて、別の形で後悔を有意義な仕事に転換する生き方はあったかもしれない。しかし、8月15日、その日その時の彼の直感と感性がそういう生き方を選ばせたのであり、その行動を他人がとやかく評価するべきではないだろう。
その後、東京から遠く離れて、出身地に近い秋田県横手市に居を構え、一介の地方人として、ささやかな週刊新聞「たいまつ」を通じて、平和主義を叫び続け、地元に即した農業や教育などの社会問題を論じ続けた氏の言論は、秋田のみならず、日本全国の数多くの人々に影響を与え続けた。
私は氏の全貌をまとめる能力はないので、ここでは、8月22日、亡くなった翌日に、秋田さきがけ新聞と朝日新聞に載った、氏への追悼の記事から、印象に残った文章を再掲させていただくことにする。
------------------------------------------*「反骨のジャーナリスト」と世間から呼ばれて-----
「反骨はジャーナリストの基本性質だ」
*戦時中の新聞社であからさまな検閲や弾圧など見なかった、危ういのは報道側の自主規制だと指摘したうえで-----
「権力と問題を起こすまいと自分たちの原稿に自分たちで検閲を加える。検閲よりはるかに有害だった」
*昨今の安倍政権に対してあらゆる批判言論を続けたが、一方、国民に対しても手厳しい意見を------
「「もっとじゃんじゃん声を上げないと。まるで親つばめから餌をもらう子つばめのように(政府に対して)受け身になっている」
*氏は8月15日を特別な日とは考えていなかった。
「365日の中で考え続けないといけない」
*8月15日に行われる黙とうにも反対で---
「声を張り上げよう」
*新聞記者時代は中国やインドネシアなどに従軍。普通の人々が、相手を殺さないと自分が殺される現場を取材し続けた。「臣民」の名で「やらされた」人ばかりで、「やった」人がいないことが戦争責任をあいまいにし、今も近隣諸国と緊張関係が続く原因だと指摘した。
*ジャーナリストであることの根底には、幼い頃に見た懸命に働いても貧しかった実家(小作農家)と、何もせずに豊かに暮らす旦那衆の姿があった。-----
「不当に貧しい者がなぜ存在するのか。不当に富んでいる者がなぜ威張り続けるのか---」
*週刊新聞「たいまつ」の名の由来-----
「自分の身を焼いて暗闇を照らす」
*「ニセモノはみんな仰々しい。ホンモノはみんな素朴だ、ひっそりと」
*「憎むべきものを憎まないと、憎んではならないものを憎むことになる」
*平成28年7月、参議院選挙で改憲勢力が3分の2を占めた------
「あとの3分の1が新しい考えを作ることだな」
*“希望は絶望のど真ん中に”------氏の著書の題名
* なお、氏の反戦活動を続ける原動力になったのは、終戦直前に、氏の3歳になる長女が疫痢で死んだことにあるとのことである。薬の入手が困難で、病状が悪化したその日、出征する医師の壮行会で地域の医師全員が留守だったことなどが重なって助けられなかった、そういうことがあった。
H.28.8.に記す
追悼 むのたけじ さん