近年のナショナリズムと改憲論議に思う

平成17年の記
           (安部晋三氏が首相になる少し前の頃)


 近年のナショナリズムと改憲論議に思う

軍事国家が現実主義で、平和主義は空論なのか

 近年、北朝鮮拉致問題や、長引く不況などによる社会への危機感、その他諸々の状況が誘因となって、この国の人間の心の、意識および無意識の両レベルで、ナショナリズムが深く潜行しつつある。その一方で戦後日本の大多数のコンセンサスだった「平和主義」の退潮が著しい。

 ここらで我々はもう少し、短期的にでなく長期的な視野で、またこの百年の世界の歴史の教訓を踏まえて、日本の将来をよく考えるべきではないだろうか。

1 イラク派兵は、重大な一線を超えた

昨年、日本は軍事政策において、舵が大きく切られた。平和憲法とその精神はまるで、冷たい雨に打たれて街角の小道で風に舞うぼろくずのように見捨てられた。

アメリカとその同盟国が始めた私的な戦争に日本が参加するのは、どうみても、違憲である(その証拠に、内閣法制局の高官が自らの職務の空しさにくやし涙を浮かべたという)。今までのように、国連の平和維持活動(PKO)に参加するのとは、意味が全く違う。

日々我々は、医療に関するまるで些細な法規に縛られいやな思いをしている一方で、法治国家の最高責任者が、最も重要な法律である憲法を、白昼堂々と無視して行く。

そういう国が、はたして中高生に正しい社会や道徳のことを教育する資格があるか。外国から敬意をもってみられるか。近隣諸国から、信頼される国とみなされるか。

2 だから改憲だ、という論理

「今の憲法では何もできない、世界の平和維持のための人的活動を全く制限されている、改憲されるのを待ってからでは、世界から取り残されてしまう、ゼニだけ出して血も汗も流さない、欧米から嘲笑の的になるだけだ、だから一人前の国になるには、こういうやり方しかないのだよ。」

こういう声はつい十年前なら、けっして大多数の意見ではなかったのに、最近は大きく様変わりした。もちろん、私自身、周囲の状況に影響されやすい人間で、このような意見を理解できないではない。私らに近い年代の人間の多くも、似たりよったりだろう。「昔は、青っぽくて世間知らず、単純な理想的平和主義だったんだよな、現実離れしてたんだよなあ」と。

しかし、ここでよく考えてみたい。平和主義を空論とみなしたり、過度のナショナリズムの氾濫について、それを「理解できること」と、「賛成である」ことは、全然違うことであることを。そして、日本の行く末を決めるのは、結局は一人一人の国民の問題であることを。

たしかに、戦後日本の平和志向と軍事体制は、1億2千万人の人口をかかえるけっして小さくはない国としては、史上先例のないものであったかもしれない。それが50年以上持続したのは、仕掛けた戦争があまりに無謀だったことを大いに悔いたためであり、それ以上に冷戦の中で、一方の側の大国の傘の下で、軍事的危機と戦争が自国でない他の近隣諸国において存在したためであろう。

「冷戦が終わって、世界は大きく変化した。日米安保条約があっても、いつまでもアメリカが庇護してくれると盲信することはできない、独力の防衛力をきちんと持たなければならない、たとえば北朝鮮が攻撃してきたら、日本はどうやって対抗するつもりなのか。何らかの理由で、中国との関係が悪化したらどうやってまもる気なのか」、こう言われると、多くの人は、「そうだよな、だから--------。やはり仕方ないか。」ということになる。

しかし今、日本が軍事政策を大きく変えることが、本当に日本の人々を守るのに最善の手段なのだろうか。ナショナリストがいう「軍事的にはっきり一人前の国」になるよりも、もっと大切なことがないだろうか。

 3 「平和主義」は空論か

アメリカから与えられた憲法だから、自前の新憲法をとよくいわれる。しかし人間でも憲法でも重要なのは、出生秘話ではなく、その中身である。冷戦という特殊な状況だったとはいえ、戦後日本の繁栄に現憲法は少なからず寄与してきた。世界中の心ある国や人々から、この平和憲法は敬意をもってみられ続けてきたし、国際的な経済活動の潤滑油の役目も果たしたはずである。

とくに、東アジアや東南アジアが日本の軍事的脅威を考慮する必要がなかったことは、この地域の経済発展の大きな原因の一つになったはずだ。また、中東においても日本がまずまずの友好国として遇せられてきたのは、近代において日本が欧米帝国主義国家と戦った歴史があることはさておき、特別に平和志向をもつ国であったことも理由の一つだろう。

 たしかに冷戦が終わり、「アメリカ帝国」の中身はかなり疑問があることを考えれば、日本も「軍事において一人前の国」にならなければ、という意見が強くなるのは理解できる。今後近隣のどこかの国が、日本に攻めてこないと、絶対保証できるかと言われたら、誰だって「絶対ない」なんて言えない。あるいは歴史上では、ぜひとも必要だった戦争もたしかにあったろう(たとえばイギリスの立場としての対ナチ戦)。だったら、自衛隊も時々「臨床実習」しておかなければ、いざというときに戦えないだろう、そう小泉首相あたりは考えてもいるのだろうか。

しかし、本当に軍事国家が現実主義で、平和主義は空論なのだろうか。

強い軍隊は、戦争になれば強い盾になるだろうが、一方で平時には、周辺国との緊張を増大し戦争の可能性をむしろ高める。これは歴史の定石だろう。日本が、やみくもに中国や朝鮮半島を挑発して、長期の平和への展望が開けるだろうか。そして悪夢だったらいいけど、東アジアや東南アジアのいくつかの国では核兵器の保有に走るかもしれない。そうすれば日本も-------

未来は誰にもわからないから、こと軍事においては専門家がどんなに正しそうなことを予想しても、大体は当たらない。(第1次世界大戦前のヨーロッパを思い起こせ)。私たちが知っているのは、戦争が人間とずっと共にあり、しかも文明の進歩とともに、その悲惨さも大規模になってきたという20世紀の歴史である。

こうしたテーマは単純ではないので、とうてい本稿では十分に論ずることはできないが、むしろ平和主義のほうが、現実的であることが多いことは、ぜひ多くの方々に知っていただきたい(たとえば、藤原帰一著、「正しい戦争」は本当にあるのか ロッキング・オン刊 2003年) 

ひとつひとつ地道な外交を続けて、困難な問題を打開していく、そういう道以外のよい手段がいったいあるか。そして日本はそういう外交努力をしているか。

現憲法はたしかに現実とのずれがあると思う。しかし、今のような国内・国外の状態(政治、経済、世界情勢)で、新憲法ができていくのだとしたら、それはまずいと考える。

4 愛国心

近代以降の国家におけるナショナリズムの心性は、基本的に、人間本来の性質に根ざしたものだから、良いとか悪いとかの問題ではない。また日本には十分に誇ってよい自国の歴史や文化もある。(ただし、日本だけが特別立派なわけでもない。)

ところで、品性の劣る人間が、自分を大切にしろといわれた場合、愚劣な利己主義で生きるように、ナショナリズムのすぐ隣には、「国粋主義」、あるいは「chauvinism」が待ち構えている。近年、ナショナリズムは大いにもてはやされているが、これは国粋主義と表裏一体であることが多く、細心の注意が必要である。
chauvinism=ショーヴィニズム、排他的愛国主義。国粋主義とほぼ同義)

国粋主義は、国際紛争の原因の主たる一つであり、いざ戦争になった場合、被害がきわめて大きくなることが明確になった20世紀以降では、捨て去るべき思想(心理)である。

「愛国心を育め」などとわざわざ言わなくたって、誰でも自分の育った故郷や祖国は愛する。故郷の風も、祖国の山河も「私そのもの」だからだ。

もし、今の日本の若者や中年に、諸外国なみの愛国心がないとすれば(私はそんなこともないと思っているが)、それは左翼思想や日教組が原因ではなく、次のようなことが主因と考える。ひとつは、国の責任者あるいは指導的な人間・団体が往々にしてあまりに利己的であったこと。(利己的な行動を可能にしたのは史上、類をみない高度成長で、しかし今は破綻した)。二つめは国民こぞって経済発展のみを社会や人生の目標にしてきて、家庭をおろそかにし、かつ空虚な個人主義に陥ったことである。(ナショナリストは、日本における躾の喪失が、「戦後民主主義」のためみたいによく言うが、それとこれとは違う問題である)。

どこの子供が、そんな欲ばり亡者の大人ばっかりの国を無邪気に愛するか。「教育勅語」の復活で解決する問題では断じてない。

19世紀ならいざ知らず21世紀の今、ことさら「愛国心をもて」といった場合、しばしばその言葉の裏には、国として「利己的になれ、わがままになれ」という、驕慢な考えがひそんでいることが少なくない、と私はみている。

 

5 君が代・日の丸

一般的に自分の住む国の国歌、国旗を誰が軽蔑するか。その内容と歴史が問題だから、強制に反対するのである。日本は民主主義の国なのに、見えない誰かに向かって「あなたの国、あなたの時代」とみんなで歌うこと。(歌うとき、天皇・皇室を連想しない日本人は皆無だろう)。その古代的感性が自分の考えにはそぐわないと感ずる国民が、私を含め何割かはいる。(誤解されてもかまわないのだが、現憲法第1条に私は反対しているのではない。はっきり言ってどちらでもいい。)

大声で斉唱したい方々はどうぞ歌えばいい。しかし、こういう歌詞なら歌えないという自由は侵されたくない。これは思想の自由、宗教の自由とも関連ある重大な事項である。

日本政府が国歌斉唱を強制するなら、別の歌にするべきだ。たとえば、滝廉太郎の「花」とか、あるいはどうしても和風階調でというなら「さくら」とか。(戦前に生きた方々は、桜さえいやな事を連想する人も少なくないではあろうが。)

私見では、日本において教育レベルが一般に高いにもかかわらず、民主主義が今もって根づかないのは、「君が代」の心性に大いに関係がある。自分でものを考え発言する人間が今後も少なければ、世界のあらゆる競争の中で、日本はますます転落していくだろう。

日の丸掲揚も公立学校で義務づけられた。ナショナリストは、アメリカでもそうしているのだから、日本でも当然だというが、アメリカは歴史の浅い、しかも極端な多民族国家で、国歌・国旗がなければ、アイデンティティーを見失う国である。一方、たとえばフランスでは三色旗掲揚は学校で義務づけられているわけでないし、ましてやラ・マルセイエーズの歌詞が、学校の卒業式などで歌われることはないときいている。国柄によって、いろいろなわけである。

6 南京事件

ナショナリストは、昭和12年の南京での虐殺はたいしたことはなかったというし、従来の教科書に書いている死亡者の数が誇張だといい続けている。

もちろん正確な数はわからない。きわめて多数を殺したんだから正しい数なんてわかるはずがない。彼らは、南京攻防の約1週間に殺された民間人が10万人だったら悪くて、1万人だったらよいというのだろうか。他の国を蹂躙し、多くの非戦闘員・女・子供を虐殺した国の人間が、いつまでも正確な数は何万人だったかなどと言ってるのは、とても見苦しい。そんなことは当事国以外の歴史学者に任せるべきだ。(戦後南京につくられた国際救済委員会(責任者はドイツ人)は被虐殺者の数を4万2千人としている。)

もし仕事や人間関係で、過去の過ちについていつまでも弁解がましくグダグダいう奴がいたら、仲間からつまはじきされるだけだろう。その時代は、帝国主義の時代だったから、日本だけが悪行をなしたわけではないと彼らはいうが、そんなことは中国人にとっては全く関係ない「たわ言」である。

そんなことより、昭和12年12月日本軍が上海から南京に進軍する300kmにおいて、食糧はすべて現地調達(つまり掠奪)、その間、約30万人の中国民衆が殺されたという常識的な史実を、今の日本人の何%が知っているか(もちろん、戦争になれば虐殺はあるだろう。しかし、一般的な戦争史においても、南京陥落前後の日本軍の野蛮な行為はその規模において類例がきわめて少ないというのが世界の定説である。12月15日の夜だけで、2万人という説もある。)

7 他国の身になれば

ナショナリストは、戦後の左翼と日教組が、日本の若者たちを「自虐史観」でこり固め洗脳したといい続けているが、「洗脳された」私でさえ、日中戦争の歴史への深い理解はとても不十分だ。

なお日本人のかなりは、中国や韓国はいつまでたっても、日本にだらだら文句をつけている、どうしようもない人たちだ、と思っているはずである。しかし、近隣諸国の彼らの人間としての記憶、あるいは国としての記憶がある限り、日本はいつまでも文句をいわれ不信に思われても仕方ないと思う(これもchauvinistは、当然、自虐思考と呼ぶだろう)。

自分の身内に殺人や残虐行為を及ぼした者を、人間は許せるか。もし、逆の立場で、過去に、20万人ぐらいの中国軍が舞鶴あたりに勝手に上陸してきて、掠奪、婦女暴行、そして10万か20万人の民間人虐殺を続けながら、東京まで進軍してきて、ついには占領し焼き払い、ここでも、女子供を含む民間人の2万人なり4万人なりをのべつまくなしに殺したとしたとする。日本人としたら、何度謝られても、いくら金で賠償されても、恨みは半永久的に残ろうというものではないか。信頼感は半永久的に持つことはできないはずではないか。

だからこそ平和憲法ができたのだろう?戦後貧しい中で、一生懸命みんなで働いて出直したのだろう。

母の顔を浮かべながら、異国の土となったわれらが兵士たちの魂だって、そのほとんどが望んだのは、「誇りある日本」でもなければ、「富める国日本」でもない、ただただ「平和な日本」ではなかったか。

国粋主義者らを批判すればきりがない。彼らはよく、太平洋戦争(大東亜戦争)は大敗でなく惜敗みたいに言っている。しかし日本が軍事で勝ったのは当初の半年のみで、その後の3年間は大敗だった。たとえば将棋や碁で、あるいは野球やサッカーで、序盤だけは何とか形勢がよかったものの、結果的にはめちゃくちゃ大敗だった敗者がいつまでも、「あれは惜しい試合だったな。」などと言ってたら、馬鹿にされるだけだろう。自国に誇りをもつのなら、まず「敗北」や「失敗」や「悪行」を素直に認め反省し、それを踏まえて再生を期すことから始めないといけない。彼らのやっていることは、まったく逆だ。

また彼らは昭和天皇を美化するのに懸命だが、天皇と政治権力が7月26日のポツダム宣言をすぐに受け入れたならば、8月6日の広島、88日のソ連参戦、8月9日の長崎、そして終戦間際の各地の空襲はなかった可能性が強い。私は個人的には昭和天皇には何の恨みももってないし、敗戦の決断を彼一人で決めることはできなかっただろうこともわかっているが、彼を美化することは戦争責任の問題を歪める、このことは何も難しい論理ではない。

8 小泉内閣の意図、情報の質

小泉首相の政治的野心は憲法改正(新憲法制定)である。岸信介、福田赳夫、安部晋太郎とつながる自民党タカ派派閥の系譜の中で、両脇にはよりによって福田、安部ジュニア両氏を従え、時代も世論もいまだかってない「好機」を迎えている。

いま日本に住み生きている人間がどこまで未来をしっかり考えて、それに賛成していくのか、あるいは反対していくのか。

ソ連・東欧の社会主義が退場したあと、日本の社会主義陣営は全く影が薄くなった。これは歴史の流れであるから、良いとか悪いとかは私には無縁である。しかし、一方で、平和主義が、社会主義と一緒に退場しつつあるのが、私には残念であるし、また不可解なことでもある。平和主義はもともと、社会主義や資本主義などの政治体制とは連動しているものではなかったはずだからである(そういうものからは、独立している思想である)。

そのような今の流れの中で、日本は反動的ともいえる「反平和国家」への奔流に飲み込まれつつあるような気がする。

一方、情報はあふれているようで、まるで少ない。このような軍事や平和、外交に関するテーマについては、テレビはもちろんのこと、一般の新聞でさえ、かなり不十分である。この種の問題は、特別に、権力が自らの都合のよい方向に情報を統制しているからである。ぜひ自分で資料や本を集め読むなどして、もっと深い知識を得、そして身近な人と話し合って、自分の考えを成熟させたいものである。

また平和主義の側の人間は、今までにありがちだった「情緒的平和主義」あるいは「現実に目を閉じた平和主義」は今後無力であることを知るべきだろう。よほどの気力と論理・知識をもっていなければ、今後も力を増すはずのナショナリズムに対抗することはとうていできないはずだから。

後戻りできない状況になってからではどうしようもないし、犠牲になるのは、政治家も官僚でもない、また観念的な国粋主義者でもない、普通の人々なんだよ、そういう気持ちが抑えきれず、大切な誌面を使わせていただき投稿した次第である。

おわりに  

ある雑誌の記事で、20年前ぐらいまでは、北方四島の解決策を小学の高学年に聞くと、多くは「ソ連と話し合いを続けて」と答える生徒が多かったが、近年は「自衛隊を出動させて、ロシアをやっつけろ」という生徒たちが目立ってきているという。

戦争は国家から正当化されてはいるが殺人そのものであること、たずさわる者がいくら善人だろうと関係なく彼を残虐な人間にし、さらに戦争にも無縁な人間に対してもあまりにも多くの無駄な死を強いるものである、そういう取り返しのつかない最悪の手段であることをその子供たちは知らないのだろう。戦争の悲惨さ、愚劣さを知らないとともに、自分とは無縁のことと思い込んでいるのだろう。そういう生徒らが、そのまま大きくなって、chauvinistらの期待どおり、この国の多数派を占めるようになったら----------

そんなことには絶対にさせてはならない。

一見正論に見えるナショナリズムの奔流に身をまかせるのか、それとも東アジアの平和にとっては、最も現実的な国策としての「平和主義」を、困難な中でも選び取っていくのか。一人一人の考え、言葉、行動が今ほど問われている時はない。