自然がいい、反自然を憎む  
             (2012年の記)

   科学とは、自然界に起こる現象と、それを説明する理論の間の、無限の会話である
    ---------「昔、原発というものがあった」  池澤夏樹



 1.自然がいい

 さあ、待ちに待った春です。今年の冬も本当に長く暗く、また寒かった。でも冬の後には必ず春が来て、草木は緑になり、好きなゴルフもジョギングも花見もできるようになるのは確実ですから、どんなにつらい冬でも実はまあ我慢できるものなのですね。歳をとってきて近年は無為徒食の時間が多くなりましたが、若い時とは違ってことさら大切だと思うことが一つだけあります。それは、「自然」。

私たちの業界は、人間の体や心といった「自然」(ミクロコスモス、内なる宇宙)が相手ではありますが、その手法は医学という「非自然」を用いるので、中年まではあまり「自然の大切さ」みたいなことは、頭の中には浮かばなかった。(医学の方法、たとえば薬剤の多くは人工物ですし、手術ももちろん自然ではない、また遺伝子工学も自然に少し逆らう面があるでしょう。)もともと、都会には住んだことはなくて田舎者そのものである自分が、「自然はすばらしい」と言ったって、あたりまえすぎて人には笑われるだけですから、なるべく自然については、特別に考えないようにしていたという面はあったかもしれません。

でもここ数年、肉親、友人、同級生の死のいくつかに接し、自分もいつかはこの世からいなくなることを、ときおり意識するようになりました。すると、自分の死は仕方ないにしても、一方でなぜか、「自然へのいとおしさ」をときどき強く感ずるのです。四季折々の美しい山河草木は、自分の生死に関係なくいつまでも残るはずだ、いや必ず残っていてほしい。その発想をさかのぼれば、高校で習った唐詩の「年々歳々花相似 歳々年々人不同」があるかもしれませんし、また40歳代のある時期、毎日のように聞いていた、G.マーラーの「大地の歌」の最終部分、そこでは友との永遠の別れ(もしくはこの世との別れ)がゆっくりと哀切に歌われたあと、すべてがふっ切れたような清らかなメロディーにのって、

「愛する大地は、春になれば

 至るところに花が咲き、新たに緑が萌え出る!

 どこまでも、はるか彼方までも永遠に青く輝くだろう

 永遠に-------永遠に!」      (村井翔 訳)

という、自分がいなくなったあとも末長く続く、この世の自然の美しさへの祈り、みたいな歌詞への記憶も関係しているかもしれません。 

 

それと関係あるのかどうか、日々の診療でも「自然の大切さ」を、ついつい説教的に口に出しては、ときに患者や職員から顰蹙を買ってしまいます。たとえば、軽めのかぜで来たおばさんに、「これくらいのかぜは自然に治るんだから、本当は薬はいらないし、もしかしたら受診の必要さえなかった。皆さんはその自然のすばらしさ(この場合、免疫機構)を知らないもんだから、すぐ人工の物(薬という非自然)に頼ろうとするんだね。」とか、あるいは睡眠薬を要望するじいさんに、(ある程度、睡眠状況をきいたあと)、「睡眠は本来自然なもので、脳が眠りを必要とすればおのずから眠れるようになっている、睡眠を意識しすぎることによって、本当は自然に属するはずの睡眠が、自然でなくなっている、そこが本当の問題なんだよ」、という具合になって、患者さんには嫌われることになってしまいます。もちろん私も医者のはしくれですから、薬などの「非自然」のおかげで仕事が成り立っていることは知っています。いえ、現代の文明は、都市、情報交通手段、あるいは日常生活のありとあらゆるものが「非自然」でできていて、それなしでは成り立たないでしょう。(文明そのものが、そもそも「非自然」ではある。)

2.反自然を憎む

 ところで、「非自然」は便利だしやむを得ないものとしても、他方それとは別の「反自然」という自分なりの概念があり、これはできるだけ避けたいものと考えます。以下に述べるように「反自然」は、多くの場合「非自然」すなわち科学技術が行き過ぎて、かつ間違った方法によって使われているものです。

 具体例でいえば、計画中の諸々のダム。とうてい今となっては不必要と思われるのに、1か所に何千億円という巨費(血税)を投じて無理やり作られようとしている。それは現代土木技術の粋のひとつであろうが、せっかくの山奥の大自然や桃源郷を破壊し、川を汚すことになります。(たとえば現在進行中の成瀬ダム。ダムのない過去現在において、いったい誰が、どのように困っているか。政府は金がないと言って消費税など税金を上げようとしているが、一方でこういう無駄な工事をしている。自民党も民主党もめちゃくちゃだ。官僚の言いなりだからそうなる。なお1月ごろ、新聞紙上に、成瀬ダムを誘致しているH村々長の、「ダムを作れば、下流の水はむしろきれいになる」、との発言が載っていた。日本にも、めちゃくちゃなことをいう人間が、いるものだ。旧増田町あたりで、皆瀬川と成瀬川とでその水の清らかさを比べてみれば、一目瞭然である)。
 また「反自然」として許せないのは、「金融工学」のある側面。高度数学を応用し人間社会に富と幸福をもたらすという名目で、知能の高い人間たちがアメリカを中心に導入した複雑な技術は、経済活動に不可欠なモラルという変数を入れてないがために、今もって世界中に甚大な災禍をもたらしています。
 他にも「反自然」はいろいろあるでしょうが、私が
「反自然」の東の横綱と考えているのは、原子力発電です。
 たしかに、人類の祖先は火を使うことを覚えたときに、現代文明への最初の一歩を踏み出した。火、すなわち燃焼は、酸素と結合しやすい物質(生物体の炭素や無機物など)が急激な反応を起こしたときの、地球上ではそれこそ何億年来ある「自然」の現象でしょう。しかし核分裂によるエネルギーの生成と利用、これは地球上には存在しない現象です(中沢新一氏によると、大昔にアフリカで、自然現象として、原発に似た核分裂反応があった痕跡があるにはあるらしいが-----)。
 原発に関する言葉は燃焼とのアナロジーで表現されているが、そこには無理があり、欺瞞が発生する宿命があると思います。「炉」、「燃」、「点火」、などなどの言葉が原子力発電の文脈の中で使われますが、「火」は本来核分裂反応とは、全然関係ないものです。 
 一方、とても毒性の高い核分裂廃棄物を、未来の人間・生き物そして大地に対して、この時代の排泄物のごとく残し、さらには、いったん事故になれば、途方もない犠牲を伴う原発(英語では「核発電」)を、自らの科学技術として運用できる能力をもつほど、人間は進化しているのでしょうか?
 
 冒頭の池澤夏樹氏の言葉のとおり、「科学」は、自然現象との無限の対話(実験、観察、仮説、検証、帰納、演繹など)により成立するはずのものです。きっと、「技術」も同じようなものでしょう。しかし、核分裂の利用は自然から遠く離れているので、その現象との会話には、きわめて大きな制約があります。実験原子炉など以外は、現実に稼働している原子炉が、やっと「自然」の代用となるのなら、安全管理の問題も含めて、実験と現実的応用の両者がごちゃまぜになっていて、科学技術の基本的方法論として、とんでもない誤りが潜在的に存在しているような気がします。3.11.からまだ日が浅いある夜、原発事故を、飛行機事故との対比で説明し、「一人も死んでいない」と原発を擁護してテレビカメラの前で言い放った有名人がいましたが、彼女はこの二種類の事故の被害の大きさ・性質の差異への理解がまるで間違っていると同時に、上に書いたような科学技術の基本的な難題性を、全然頭の中に入れてないように、私には見受けられました。
 核分裂の利用は人間には身分不相応だと思う。それを否定する方々には、だったらどうぞ原発を東京の真ん中に、あなたの家の隣に作ってください、と私は声を大にして言いたい。

 17世紀の科学革命と、18世紀からの産業革命以来、この文明は人間社会にはかりしれない快適さ・便利さ・楽しさをもたらした一方で、海や山を汚し自然を壊したほか、過去とは次元の異る大規模な戦争を次から次と起こし、20世紀には原爆投下を含め人類の歴史の中でも比類のないほどの悲劇を、地球上の至るところで出現せしめました。
 人間はこの地球を支配できるほど賢いのでしょうか。核エネルギーを意のままに操って、後世末代まで人間社会に幸福をもたらすことができると、本気で考えている人々がいるのでしょうか。その人たちの無意識は、自分らがホモサピエンスから一段進化して、神の域に少し近づいたと思っているのではないか。
 19世紀の文豪ドストエフスキーが、「罪と罰」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」で、人類の未来と悲劇を、私からすれば予言的に描いたように、自然の摂理から離れ神に近づいたと錯覚した人間とその社会は、自らの理性・知能を超えた何者かによって、必ずや破滅への坂を転げ落ちる運命にある、私はそう勝手に推測しています。ドストエフスキーにとって、その「何者か」はロシア正教の神だったようですが、日本人たる私にとってはその「何者か」は、まさに「自然」なのです。