平成20年1月の記

Yの悲喜劇      
      実存とDNAに関する気軽な一考察

 1) 
2、3年前だったか一時期、「女系天皇」云々について、月刊誌や論壇で話題になったことがあった。また、政府による有識者会議ももたれて、その是非をめぐって論議がなされた。(座長は前の某国立大学学長いや総長だったが、彼は数々の政府諮問会議の委員を歴任されてきたベテランであった。しかしその時ばかりは、身辺警護がじつに手厚すぎて、少々辟易したとのことである。以下の拙文も、
その辺は一応考慮している。)

そのテーマに関しては、自ら保守を名乗る方々は、「女帝などもってのほか」という意見のようだったし(たとえば、現在は無所属の平沼某代議士など)、一方リベラル的な諸氏は「十分に考慮されるべきである」、という意見だったと記憶している。私は特別な意見はもってはいないが、どう考えるかともし訊かれたとしたら、後者である。なぜなら、過去のように側室制度のもとではいざ知らず、現代の一夫一妻制のもとで直系男子だけで家系を継いでいくのは、非常に無理があり、皇族の方々にとっても(肉体的にはいざ知らず!)精神的には大変な重圧がかかる「実存的な問題」であると思えるからである。なお、保守の方々は、皇室は一般市民と違うから実存も人権も関係ないと反論するだろうが、私はそんなことはないと思っている。なぜなら彼らは神ではなく、人間だからである。

加えて、もし「女帝もあり」ということになっても、当人(プリンセス)はいずれ大人になったらどっかの優しそうな民間人と結婚するつもりで生きていたのが、23歳頃急に「あなたは近い将来に天皇になることにあいなりました」、と言われても、心も体も準備ができていなくて、彼女は悲劇的な人生を歩む可能性が強い、とも考えられるのである。「帝王教育」は生まれた時から始められなければならない。されば制度も十分に時間的余裕をもって決めておかなければならない。

しかしその後、直系に男子が誕生したら、「女帝」論議は急速に消えていった。政府や多くの国民にとって、現実にお世継ぎがいるのにこのテーマを論議するのは、不謹慎であり縁起でもない、というところなのだろう。

保守を自認する方々が「男系」に固執する理由を私はよく知らないが、推測すれば、「それが神武天皇以来の日本の伝統だから」、あるいは「国の開闢以来、男系一家系で連綿と続いてきた世界でも誇るべきわが皇室なのだ」、ということなのだろう。このような言説は南北朝時代の錯綜は別にしても、古代における国の成り立ちとしては歴史学的に正しくなく、結局は看過できないほどの誤解・弊害を生むと私は思っているが、大筋での趣旨はまあ理解できる。

あるいは科学が進んだ現代の言葉に翻訳すれば、こういうことだろうか。「絶えることなく悠久に続いてきたY遺伝子(正しくはY染色体)、これを絶やしてはならない」。事実そう述べていた「識者」もいた。皆さんの中にも、そのようにとらえておられる方がいらっしゃるのではないだろうか。

この件については、私には異論があるのでこの紙面を借りて述べておきたい。

まず一つは、Y染色体は23対46あるヒトの染色体の中のたった一つであるということ。たとえY染色体がずっと同じく受け継がれてきたとしても---後述するようにこれも科学的には正しくないが---他の遺伝子は、何十世代の間にはまるっきり入れ替わってきたのである。皇室内の遺伝子プールは最近まで閉鎖系ということにはなっているだろうが、あまたの側室などの遺伝子もまぎれ込んでいたはずであり、総体的には開放系なのではないだろうか。もし同一のYがずっと続いていたとしても、それはほとんど無意味と私には思える。

二つめ。Yは性別を決定する染色体ではあるが、もともと他に比べてもちっぽけな染色体であり、性別決定以外はたいして働きのないみすぼらしい染色体である。(その証拠に、女はY染色体なぞ持っていなくても、立派に肉体も知性も備えている。近未来においては、Y染色体などなくても人類は生殖繁栄を続けることができるようになるだろう。)

Y染色体が悠久に続いているからといって、別に自慢になるわけではないし、国の繁栄の象徴になるわけでもない。大切なのは遺伝子ではなく、その時代や社会の状況に応じて、いかにして思慮深く、勇気にあふれ、かつ高貴に生きるかという、ひとつひとつの事実の積み重ねであろう。

三つめ。減数分裂の際、父と母から受け継いだペアの相同染色体はきれいにそのまま分かれて娘細胞にいくわけではなくて、しばしば染色体同士で「乗り換え」(遺伝子レベルでは「組み換え」)がおこることは、高校の生物の授業にも出てくる遺伝学の常識である。これは常染色体のみならず、性染色体にも当然おこり、XYの間でもおこっている。すなわち、「同一のY染色体が連綿と続いてきた」、ということは事実ではない。

以上からすれば科学的には「父系」に固執する理由は全く存在しない、と私は考えている。保守の方々は、科学なんかはどうでもいいことで、自分らは「精神性」を言っているのだと反論するであろう。その次元になると、「神学論争」になるので私は何も言うことはない。

2)人間であれば本能的に自分の子や孫が可愛いし、子孫の幸福を願うだろう。そして日頃から、自分の家系の末代までの繁栄を心から願っている人も少なくないだろう。とくに、日本、中国、朝鮮半島など東アジアは、他の文化圏よりも家系、血族への信仰がことさらに強い地域といわれる。儒教の影響なのだろうか。

ネオダーウィニスト、R.ドーキンスによれば、ヒトも含めた生き物はすべからく、DNAの運び屋、後世への伝え屋なのであり、個体はこの世での仮の姿、本当の主人公は何十億年も生き残ってくDNAなのだ、ということらしい。きっとそうなんだろう。遺伝学にもDNAにも人々が縁がなかった昔から、意識や知能をもった人類は何となくこのことを直感的にわかっていて、だからこそ、本能を超えてまで、家や子孫を大事にしてきたのかもしれない。世の中の人生の悲喜劇はほとんどすべて、自分のDNAを後々まで残そうという本能・習性とその変奏曲によって説明できそうな気がする-----

しかし一方で私は次のようにも思うのである。たとえ自分のDNAが末永く続いたとしても、個々人が「自分のDNAの存続」ととらえるのは長い時間でみると、ほとんど意味をなさないのではないか。単純計算では、子は2分の1DNAを共有している。孫は4分の1、ひ孫は8分の1だ。10世代あとは約300年後として2の10乗分の1、つまり1024分の1である。1024分の1だけ自分とDNAを共有する人間、そんな彼・彼女ははたして自分と何の関係があるのだろうか。

DNAの存続は個体や家系としては無意味であり、それはあくまでも集団としての存続に意味がある。その集団とは、DNAを全体として保持していく集団であり、家族血縁ではない。それは、一般的には「同じ民族」であろう。(婚姻が成立するのは、ふつうは同一民族内であった。)

とはいっても、文明化が進んだ現代では、交通・情報の進化、仕事の国際化で、「地球はひとつ」、といった感じが強くなり、国際結婚もかなり多くなっている。すなわち「民族」はまだまだ消えないものの、現代文明がこのまましばらく続くとすれば、DNAを保持する集団は世界でまとめて一つという面が強くなるであろう。

しかしながら、自分のDNAの存続は人類全体のため、というのも話が大きくなりすぎて実感としては感じにくい。グローバリゼイションは、人間が何のために生きているのか、という根本的問題にもひょっこり影響力を及ぼしていそうである。

3) さて、いつからか毎晩犬と散歩しながら、晴れていれば自然と星を見上げる習慣ができた。最近は、東の空に小接近した火星が赤く輝いていて美しい。その近くには星座の王者オリオン、さらのその隣には、この老眼ではくっきりとはいかないが、どうにか昴(すばる)もみえる。

宇宙の長さからみれば、人間の一生など一瞬よりもさらに短い。上に述べたようなことを暇にまかせて考えるのも、全く愚かなことではあろう。「生きている意味」など、本当は何もないのかもしれない。

でも現実としては、我々の生活にはささやかながら喜怒哀楽がいろいろと訪れて、この人生は下らないというのももったいない話ではある。つまりは、宇宙の次元では一瞬以下ではあっても、生きている何十年かの間に自分の属する集団のため(未来でいえば人間世界全体のため)、ささやかであろうとも何かよいことをして、この奇跡の惑星・地球に繁栄した無数の命の連鎖の中の一つとして、DNA様の進化の邪魔をしないようする---人間存在の意味はせいぜいそんな所なのかもしれない。自分の老化の始まりを感じながらこんなふうに思う今日この頃である。






//