秋田大学医学部同窓会誌に載ったもの
平成30年9月
開業医生活30年をかえりみて---誇れることは何もないが第1期生  山本 久

なぜ医学部へ
高校2年、暗い空からみぞれが降る11月の帰り道だったと思う。後に18歳で、交通事故で急死することになる旧来の友人O君が、とぼとぼ歩いている私に自転車で追いつきざま、こう訊いてきた。「ヤマ、なして医学部なんだよ」

2年生の5月に硬式野球部をやめた後、田舎の高校では多少成績が上がってきたものの、親戚や身近な人間に医者は誰もいない、それどころか陰気でいつも貧相な格好をしていた奴が医者を志望していると誰かから聞いたO君は、意外に思ったのだろう。「ああ---。おらよ、もし大きい会社か役所で仕事したとしても、不満があればすぐやる気をなくすわがままな性格だから、医者がいいような気がするんだ。なんか自由業っぽいべ」------

  こんな理由で医者になったのだから、その後変身して、志の高い医師になるはずがなかった。志が高い?、それは同級生や後輩たちの優秀な多くの方々のように、大学や大きな病院にいて、最先端の医学を担う臨床医や研究者、あるいは何十人何百人もの職員を抱える病院の長や幹部になって、社会的使命を果たす人生だ。

医師になって

卒業して6年間、大学の某外科医局にいたが、やはり長続きはしなかった。その後総合病院での内科医に変わり、かなりの仕事をした。しかしそれも6年しか続かなかった。その頃ふつうの地方病院では、医局と繋がりをもっていなければ、医師スタッフの確保など、いろんな苦境の処理を解決していくのに、大きな困難を伴っていたのである。大学に入るときは開業医になる人生プランは全くなかったのに、気がついたら37歳にして、内科の有床診療所を開設していた。

それまでの12年間、モーレツに働き勉強もしたので、日常の医療については全く問題なかった。30年前から20年前頃までは医療福祉制度は今と違っていて、内科の有床診療所も地域の中での存在意義が十二分にあったと思う。19床のベッドはいつも満床だった。それでも毎晩のように電話でたたき起こされ、あるいは病院に呼ばれた勤務医生活よりは、まだ楽だった。

開業医として

介護保険制度の普及もあり、入院をおくのは26年間でやめた。今は外来診療と、在宅訪問、そして特別養護老人ホーム(80人)の嘱託医をゆっくりとやっている。改めて思うと、自分は開業医向きだったかもしれない。上記のように他人の支配下におかれるのが耐えられない損な性格はさしおいても、今までとても健康であったこと。この30年間、病気で一日も診療を休んだことはないのは、わが人生で唯一自慢できることである(単に運がいいだけかも)。椎間板ヘルニアで苦しんだ日々も、めまいで世界が回っている日々も、仕事は休まなかった(いえ、借金を抱えていて休めなかった)。

あるいは次のようなことも----。物事を深く考えたりするのは苦手だしその能力もない一方(たとえば、緩衝系の化学は今もってよくわからないし、腎臓の詳しい生理の理解も能力外だ)、医学でも何でも浅く広く知識を得るのは好きだ。ありふれた病気を診療していくのに、難しい理論は要らない。必要なのは最新の教科書レベルの知識の他は、多様な性格や境遇をもった個々の患者への共感だと思う。私はうつ病系の父親を横目で見ながら、経済的困難な家で育ち性格も明るくないので、いろいろと簡単には言えない苦しみをもった人間への理解は、もしかしたら得意な方かもしれない。勤務医の仕事も多様な方法があるのだろうが、最先端の知識・技術の習得に忙しいだろうし、診療する患者数もとても多いだろうから、ゆっくり外来で患者をみるのは不可能だろう。それにひきかえ、私は幸か不幸か一日の患者数は限られているので(30人余り)、世間話も交えながら、文字通り「かゆい所に手が届く」ような診療が可能だ。患者が帰り際に、「先生と話をするとホッとする。体も軽くなる。」といわれるとこちらも心からうれしくなる。(もし同級生がこれを読むと、無口な私のイメージとは異なり不信に思うでしょう。でも職業は人間の性格も変えるのですね。)

なお、循環器・呼吸器内科を主な看板に掲げてありふれた病気をみる毎日といっても、先入観にとらわれて珍しい病気を見逃すことのないように注意はしている。開業してから見つけた病気の中には、褐色細胞腫、再発性多発軟骨炎(膠原病の一種)、バルサルバ洞破裂の一歩手前の症例、オウム病(肺炎の一種)、細菌性心内膜炎、左房粘液腫(2人)、普通の生活をしている人の急性血栓性肺塞栓症(2人)、なども含まれている。

仕事以外に

開業医の中には、地域に溶け込んでいろんな社会的活動をしている人もいれば、医師会活動にエネルギーを費やしている人もいるだろう。そういう人たちの生き方に私は敬意をもっている。しかし私はそういうこととはあまり縁のない生活をしてきた。

その代り最初の15年ぐらいは医師会報などにいろんな意見を投稿したり、その後の約15年は、自分でホームページを作って、気ままに文章を書いてきた(医学・医療の他に、政治社会問題への意見、いろんな読書感想など)。うれしかったのは、27年ほど前、初めて県の医師会報に開業医として意見を掲載してもらったときの、学部長であるW先生からのお葉書だった。「社会的に活動するのはいろんな方法があるだろうが、今回の投稿のように、医療や社会について考えたり意見を発表していくのも、とても有意義と思う」、みたいな内容だった。勇気をえた私はその方面でいっぱしの論者になろうとしばらく努力したが、非才と怠惰のため、ものにならなかったことについては、W先生の期待にそえなくて恥ずかしい。しかし、何通かのお便りの中で、戦中派の先生の思いと、戦後生まれの自分の「ひ弱でない平和主義」の考えには、一本のつながる棒があるような気がして、80歳代後半の今も一期生の同級会などに元気にご参加されている先生と握手できるとき、私は無上のうれしさを感ずる。

医療の世界の最底辺部を担うありきたりの毎日だが、一人ひとりがかけがいのない人間を身近でみていく今の仕事。それは別に自慢するほどのことでも何でもないが、とてもいい仕事だと思う。

平日は仕事が終われば、ゴン(13歳の柴の愛犬)との散歩、そして晩酌。休日は多少の読書の他、ヘボ碁とヘボゴルフという全く平凡な医者人生ではあるが、健康な限り今の生活を続けていきたい。そして次のような、ガンジーの言葉を携えて。

「明日死ぬかのように今日を生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」